先月、シンボリルドルフとサッカーボーイが逝きました。オグリキャップとスーパークリークは昨年、旅立ってしまってます。第何期かの競馬ブームの中心的な存在だった名馬達が、ここ何年かで立て続けに逝ってしまったことになります。それを寂しく想うのは仕方ないけれど、ただ感傷に浸っているだけでは前に進まない、ですね。
当時の映像を見ていて感じることはたくさんありますが、最も大きなインパクトがあるのは、競馬場を埋めたファンの熱さ、でしょうか。バブル景気とリンクした、ということはあるのかもしれませんが、昭和の、それこそ30~40年代の映像を見ても人垣がスタンドを埋め尽くしていますから、必ずしも景気の良し悪しだけが集客の要因ではないように思えます。“あの頃”というのは何だったのか…。
数回前の当コラムで、大人達が『今の競馬をどう楽しんでいるかを伝えるべきでは』と書いた。それは今の競馬を単純に無条件に認めて楽しみましょう、というだけではなく、いやむしろ自身の今の楽しみ方を見つめ直し、そのうえで、もしも今の競馬が楽しめる代物ではなくなっていて“あの頃の競馬”の方が面白いなら、それが何故なのかを検証して“現在”に生かすべきなのでは?といった意味も含みます。
“ただ楽しけりゃいい”という刹那的な感覚で目の前の出来事を追っていたら…。きっと何かを見失うのではないか、そう思えてなりません。
前回の話の中で、“演劇を構成する諸要素”のひとつとして、競馬場の劇場性について触れました。この演劇の構成要素については、競馬殿堂の調教師顕彰者である故・松山吉三郎先生が引退された時に、雑誌『優駿』のインタビューで興味深いことを言っておられます。
「調教師というのは演出家のようなもの」
と。
これは、先生の妹君が松山バレエ団の創設者であることと関係があるのかどうかはわかりません。ただ、かねてから“脚本”を書くのが調教師で、騎手が“演出”し、馬が役を演じる“役者”と置き換えられると考えていた自分としては、とても勇気を貰える言葉だったことは確かです。自分の役割分析が先生の意見より細かくなっているのは、調教師が騎手を兼ねることができなくなった時代だから、でしょうか(プロデューサーは強いて言えば馬主、生産者でしょうか?)。
ともかく、“あの頃の競馬”には、これらの諸要素がきちんと揃っていたような気はしますね。面白くないわけがありません。映像で観るスタンドを埋めたファンの熱と、やっぱり何らかの関係があるんじゃないでしょうか。
では、今は?
そこのところの検証は、決して簡単ではないですが、絶対にしなくてはならないと思うわけです。無論、大事なのは現在。昔話で喜んでいては話になりません。ただ、昔を知らずして現在は語れない。温故知新とでも言うのか、そういう作業抜きにして“現在”の楽しみ方など語れるものではないでしょう。長い競馬歴を持つ側の、これはひとつの責任かな、と思っています。いや、検証するということに関しては、年齢は関係ないですか。
言葉足らずになってしまっていたら、申し訳ありません。また改めて考えていきたいと思います。
美浦編集局 和田章郎