何で競馬記者に?~自己紹介を兼ねて(山田理子)

 本年から始まった東西編集局リレーコラムの一員となりました山田理子です。これから永きにわたってお付き合いいただくことになると思いますので、初回は自己紹介を。

 ナリタブライアンが三冠を達成した94年に入社。アラフォー世代(写真は少し若い時のものなので、ぼちぼち撮り直さないと)。まずは競馬記者という特殊な職業に就くことになった経緯を簡単に……。

 東京で過ごした大学時代に競馬ブームに乗って府中や中山に幾度か足を運んだものの、私にとって競馬の比重は小さく、競馬ブックの魅力は予想社としてではなく、出版社としてだった。同期の小原、牟田TMに比べれば、競馬の知識は10分の1もなかったように思う。何度かの試験を潜り抜けてたどり着いた社長面接では女性はひとりだけ。競馬に関する筆記が散々だった私はそこで槍玉に挙げられ、誰にでも分かるであろうごくごく簡単な質問をいくつも投げかけられた。重賞の勝ち馬でさえ、たどたどしく答える私。小原、牟田を含めて8人ぐらいはいただろうが、みな息を潜め、面接会場は静まり返っている。今思えば、これを逆切れというのだろう。困り果てて窮地に追い込まれた私は攻撃に出た。咄嗟に「どうして、私にだけそんな質問をするのですか?女性だからですか?こんなことなら、もし入社できても先が思いやられます!」と啖呵を切ってしまったのだ……。あ~やってしまった、不合格は決まりだ~。3月末というのに、就職先が決まっていない。だけど、焦りもなかった。ほんと若いって怖いですね。でも、それがなぜか合格。未だに分からないのだが、なぜか最終面接に通ってしまったのだ。
 競馬もよく分からないし、関西に行ったことすら数える程度。卒業式の翌日が入社日という状況のなか、不安いっぱいのまま、東京から故郷の愛知県を素通りしていざ滋賀県へ。あまりに急激な環境の変化に多くのことは忘れ去ってしまったが、栗東の編集部に到着した時のことだけは今も鮮明に覚えている。よく晴れた日曜日の午前中。開催日で人気の少ない事務所に、大好きな大好きな忌野清志郎の歌声が響いていたからだ。「競馬場で会いましょう」と。競馬が歓迎してくれているように感じたっけ。

 女性トラックマンというと取材班に配属され、「厩舎の人に可愛がってもらっておいしい情報をもってこい!」となるケースが多いのだろうが、若い頃から華がないせいか(藤井嘉夫氏いわく(綺麗どころに対して)普通どころ)、そういったミッションは一切なく、ストップウォッチを片手にせっせと時計を採り続けている。追い切る馬が少ないBコース(1周1600mのダート)と障害コースが担当。なので、目が回るほど忙しいCW担当の方々には申し訳ないほどゆとりがあり、CWやポリトラックのメジャーコースもそれなりに観察できる恵まれた環境にある。とりわけ本紙予想を命じられた障害には力を入れていて、練習を始めた馬は調教をつける騎手名は勿論、日付までもメモするほどのチェックのしようなのだが、だからといってそこからヒットは生まれず、日々後悔ばかり。現状を打破すべく2年ほど前から障害ジョッキーの取材も始めているが、人間関係こそ一朝一夕に築けるものではないので、こちらも厚い壁にぶつかり奮闘中だ。週刊誌では、関西の「重賞の傾向」「ニュースぷらざ」「リーディングサイアー」の他に、特別レースの検討記事やレースの後の「次走へのメモ」、年末の「中央競馬トピックス」などを担当。今やネットではデータの坂井直樹がすっかり有名になったが、週刊誌の方は頑なに譲らず、時にはアイディアをちょうだいしながら、これからもアナログ的思考も織り交ぜて続けていく所存だ。競馬場はフル参加ではないので、日曜にはまだ暗い早朝から坂路調教に出向くことも。現場だけでもなく内勤だけでもない、競馬ブック一、中途半端な立ち位置だと自負(?)している。でも、中途半端は悪いことじゃない。狭間にいるからこそ分かること、感じることもあるはずだ。自分ならではの視点で競馬について語り、みなさまと時間を共有し、有意義な意見交換、情報交換ができたらと考えています。どうぞ、お手やわらかに。よろしくお願いします!

栗東編集局 山田理子