ラジオの声(和田章郎)

 車の運転中は、もっぱらラジオを聴いている。それもFMではなくAM局中心。以前は「せっかくの密室空間、好きな音楽を聴かないのはもったいない」てなもんで、音楽テープとかCDばかりを聴いていましたが、変われば変わるもんだと、我ながら思います。
 何と言いますか、ラジオから得られる情報には、より身近なネタが多い気がしますし、その情報を伝える語り手の緊張感や切迫感とかが、ダイレクトに感じられます。それでつい聴き入ってしまうところがあるのです。
 だから、数カ月前に報じられた話題になりますけど、「東日本大震災の被災地では、震災直後に最も役に立ったメディアとして、ラジオの評価が群を抜いて高かった」という民放連の調査結果には、「さもありなん」という感想を持ちました。このインターネットの時代。情報が多様化し、その入手経路も複雑化している時代に、というのがこの話題のツボなんでしょうが、実際のところそうだったのです。
 電源が完全に遮断された美浦の事務所内。仙台市内を襲った津波の情報を最初に得たのはワンセグの画面でした。しかし電池が切れてしまってはいよいよ大変になることに皆が気付き、不安な気持ちを残したまま、やむなく接続を切って電池残量の確保につとめたわけですが、その時に「ラジオがあればなあ」と、ごく自然に思ったものです。親族や知人への安否確認にメールが役立ったのは確かですが、とにかく電源の喪失は、原発は言うまでもなく、IT系のツールにも致命的、ってことでしょう。
 ま、それはさておくとして、視覚が制限されてラジオからの音声だけが頼り、という状況は、それはそれで集中して情報が入手できるように思います。
 いつぞや、アナウンサーの方かタレントさんか、誰だったか忘れましたが、「テレビでしゃべるよりも、ラジオでしゃべった方が、知り合いからの反応が素早い」ということを聞いたことがあります。テレビ画面の向こう側の声はどうにも他所他所しく、ラジオから聞こえる声の方が親近感がある、ということかもしれません。
 民放連の調査結果はつまり、真っ暗で、不安に包まれた被災地の夜に、ラジオからの音声がいかに人々を勇気づけたか、ということでしょう。仮にそういう状況でなくとも、ラジオから流れる音声に聴き入って、その内容を理解しようとする姿には、それだけで何かしら胸が熱くなるモノがあるようにも思えます。映画、テレビ等で、何度も観たことがある昭和20年8月15日の玉音放送のシーン。あれなどはその典型でしょう。全国民が正座、あるいは直立不動で聴き入るわけですから、ちょっとスケールは違いますけど。
 同じように並べては叱られるかもしれませんが、我々の世代には懐かしい場外馬券売り場。そこでも似たような情景がありました。殺風景なフロアには、今のウインズみたいにモニター画面なんてありません。レースが始まると、馬券を購入した大勢が天井から下げられたスピーカーの下に集まり、そこから流れる実況に聴き入るのです。皆が専門紙を見つめながら、うつむき加減で、息を詰めて。傍目には異様な光景でしょう。でも、一種独特の不思議な時間が流れたことは確かです。途中で大騒ぎしようものなら袋叩き? そんなシーンは私は見たことがないですが、レース中に実況音声をかき消すような行為をすれば、顰蹙を買ったことは間違いありません。頭の中で描いているレース映像が、突然に中断されるのですから。わざわざキャンペーンを打つ必要がないほど、ファンには一体感があったような気がします。
 そもそも自宅に居ても、レース結果の殆どはラジオ頼りでした。テレビ中継はメインレース中心でしたから。それが今はとにかく映像配信で、至れり尽くせりのサービスが当たり前になっています。逆に求めるシーンがカメラワークの関係で画面に映らないと、激しいクレームがついたりして。確かに直線入り口から、ずうっと伸びあぐねる1番人気馬をアップで追われては論外ですが、時には目を閉じて実況に聞き入るのも悪くないかも…しないか、そんなこと。
 まあそうは言っても、テレビとラジオの実況というのは全然別モノ、という印象もあります。映像があれば言葉が不用なケースもあるわけで、例えば「第一球、ピッチャー大きく振りかぶって、投げましたっ」なんてのは、映像があればいちいち必要ないでしょう。でもラジオではそうはいきません。黙っていたら聴いている人はさっぱりわからない。逆に余計なことをしゃべり続けたり、うるさく声を張り上げてみても、やっぱり聴いている人には本当のところが伝わりにくい。過不足なく、正確なしゃべりが求められて、ある意味、ラジオの実況というのは話し手の実力がより試されるような感じを受けます。
 大分前に、ある新聞の読者投稿欄に「スポーツ番組の実況で絶叫されると興醒め」といった意味の投書がありました。「ふむふむ」と納得したその数日後、「絶叫調こそスポーツ観戦の醍醐味」という反論があって驚いたのです。だって野球とかサッカーとかボクシングとか柔道とか、その他諸々…とにかく競技の現場に行ったら絶叫調の実況なんて、というか実況そのものがありませんからね。だから現場に行かない人の意見として、テレビでは絶叫調が“観戦の醍醐味”になるのか、と考えさせられたものでした(スポーツ番組の視聴率低下と無関係でしょうか?)。
 で、我が競馬の場合はしっかり“場内実況”がありますが、これは広大な敷地内でのレース展開を、はっきりとは確認できないであろう場内のファンに伝える重要なもの。まさに過不足なく、正確に、が求められるもので、絶叫調である必要はありません。
 ところが、現在ではそれが映像とともに配信されます。つまり競馬の実況には、映像があるものと、ラジオのように映像がないものと、そして場内実況という多様な側面が混在し、しかもそれらが同時進行ということになっています。バランスの取り方は大変な作業になりそうです。なかなか“過不足なく”とはいかなくなりそうで……。
 おっと、ラジオから流れる声の話から、少々脱線してしまいました。

 とにかく深夜放送で10代を過ごし、ラジオを聴きながらレースを想像することが多かった世代にしてみると、競馬に限らず、今の情報の配信のされ方というのは、まさに隔世の感があります。どこかで何か重要な物を犠牲にしてはいないのか、という得体の知れない不安も感じながら。
 だから余計に、震災初期にラジオが重要なツールとして役立ったという話は、いろいろなことを示唆していると思えてなりません。視覚に頼らない情報の重要さ。そして、それによって得られるものは、決して“情報”だけではない、といったようなこと。なくしてはならない何かが、そのあたりにあるのではないか、と。
 そういうことを意識し続けるために、普段からさんざんお世話になっているラジオですが、やっぱり情報の入手経路として生き残ってもらわなくてはならない。改めてそう感じているところです。

美浦編集局 和田章郎