東日本大震災からまもなく3年が経とうとしています。あの大災害に関するエピソードには、理不尽だと思えたり、不可解に感じられたり、首を何度捻っても理解に苦しむような事例がありますが、そんな中の一例として、愛知県の日進市が予定していた花火大会を取りやめた、というのがありました。

 “被災地復興”を応援すべく、福島県の花火を使用しての打ち上げを予定したところ、「放射能で汚染された花火を使用するのか」、「放射能を撒き散らすのか」といった放射性物質を心配するクレームを受けて、実行委員会が直前に打ち上げを取りやめた、といった経緯が報じられました。
 実行委員会は説明したそうです。「花火店の所在地は国が定めた放射線の許容量を下回っている地域にあり、しかも室内で保管(火薬を扱う危険物ですから当然です)されており、まったく問題ありません」と。
 抗議の数がどれくらいあって、それがいかように行われたのかは知る由もありません。が、ここまで明確に説明できる材料を持ちながら、結局、予定変更されて花火の打ち上げが見送られた、というのは、いろいろな意味で残念でなりませんでした。

 一方、“明確な思想”と言っては大袈裟ですが、意識づけがなされてなかったためか抗議、クレームよって混乱、迷走した例が、島根県松江市の教育委員会が市内の小中学校に要請した、漫画『はだしのゲン』の閲覧制限の件。
 作品の内容、思想性をここでどうこう言うつもりはありません。取り上げたいのは、図書館に置いてあったものを、どこかからの陳情によって、自由閲覧を制限した、という事実。これ、明らかにある種の権利を強奪する行為のように感じますが、いかがでしょう。しつこく繰り返しますが、作品の内容、思想性は別にして、です。
 無論、公序良俗に反するようなものを子供の目から遠ざける、という考え方は理解できますが、『はだしのゲン』の場合、もともと市教委が認めて、学校の図書館に置いてあった作品なわけです。それ自体が間違いであった、という主張を元にした陳情があったとしても、何らかの説明はできなかったのでしょうか。
 で、驚かされたのはもっと後。陳情に基づいて行われた“閲覧制限”の措置について批判的な意見が出るや、その措置を“撤回”し、しかも最終的な結論を各学校の判断に委ねる、というところに落ち着いたことです。
 この一連の流れに対応した機関には、独自の判断基準、指標といったものはなかったんでしょうか。それが不思議でなりません。迷走して無理もないなあ、と。

 そして最近、日本テレビのドラマが、作品内で扱われている団体からの抗議があったことで、内容変更だの放送中止だのと問題になりました。これについても作品の内容にあれこれ触れるつもりはありませんが、こちらは制作者側が作品の主旨などを丁寧に説明することによって、放送を続ける方向になっているようです(リアルタイムの案件で今後どうなるかはわかりません)。
 まあ“フィクションです”と断りのテロップさえ入れれば何をやってもいいのか、という問題は生じるでしょう。いかに表現の自由が認められていても、それで人を傷つける権利が与えられているわけではないのですから。
 そのあたりは放送に限らず、常に議論の余地があるはずです。

 無論、抗議、クレームを完全に無視すべし、とは決して申しません。血となり肉となるモノもあるでしょうから。つまりは抗議、クレームにもいろいろあって、受けた側もその内容について慎重に精査する必要がある、ということ。
 そんなように考えていくと、抗議を受けたからと安易に内容を変更する、或いは自主規制する、という姿勢はどうなのか、と思うのです。創り手側にはっきりした考え、見解等があれば、しっかりと対応できるはずですから。要するに、前もって真摯な議論が求められるわけです。

 安易かつ簡便な対応の仕方が好ましいのかどうかは、上記の例などから学び取るしかありませんが、ごく一部の人の意見を無闇に取り入れるやり方では、より重要なモノを失う可能性があるようにも感じられます。地方自治体の一組織と、放送という“表現の自由”に直接的に関わる機関とを横並びにして考えることが許されるかどうかは、難しいところかもしれませんが。

 しかしまあ近年、話題になっている“モンスタークレーマー”には、一般に通用する理屈は通用しないのかもしれません。こちらに正しい見識、いや、たとえ正義があったとしても、まるで聞き入れられないケースが起こりうるのでしょう。それが“モンスター”の“モンスター”たる所以でしょうから。
 そういう相手に対応するのは難しそうです。それこそ明確な“証拠”みたいなものが必要になるのでしょうか。写真とか録音とか、またはビデオ映像とか。
 そうなると、外国で耳にする訴訟社会とやらに、いずれ日本も突入していくってことになるのかもしれません。何だか世知辛い…。
 気分的なモノも含めて、この世相感をどうにかできないものか。それこそ、我々がしっかりと考えていかなきゃなりませんね。
美浦編集局 和田章郎