FIFAワールドカップの決勝トーナメントもベスト8が出揃い、いよいよ佳境に入ろうとしています。普段、それほどサッカーを観ていない自分などでも、ニュース等でチラッと観るだけで面白さが伝わってきます。国際大会ならではのレベルの高さや、モチベーションといったものがプレーに出るからなんでしょう。

 こういうケースで、したり顔でいろいろと能書きを語ってしまうと『にわかファン』と呼ばれることになります。

 この「にわかファン」。もう少し簡単に言うと、それまでファンでも何でもなかったのに、周囲の空気や雰囲気に乗じてにわかに「ファンである」と公言する人を指すのでしょうか。もしかすると、誰でも一度や二度、そんなような経験があるのでは?。

 これについて、しばしば論争が起こります。
 「にわかファンは軽薄」と見下し、「選手の成長、競技の発展を妨げる」という意見が出たかと思えば、その反論として「裾野が広がるではないか」とか、「コアだと自称するファンの、その偏狭な捉え方こそが競技の発展を妨げている」とかとか。
 どちらの言い分も、極論に思える反面、当を得ているようにも感じられます。ということは、それぞれを検証してみて悪くはなさそうです。

 対象の多くはワールドカップやオリンピックに代表されるようなスポーツイベントに関連しているように思えます。競馬も例外ではありません。
 競技そのものや、チーム、或いは個々の選手について、以前から応援している人達にとっては、イベントに合わせたようにファンが沸いて出てくる現象が腹立たしく感じられるのでしょう。「普段から何故応援しないのか。少なくともファンを名乗るなら、そうあるべきではないのか」と。
 競馬を例に取ると、毎週ウインズに通うファンにとっては、ダービーや有馬記念などの大きなレースだけしか興味を示さない人に「自分は競馬ファンです」と高らかに宣言されては面白くない。そんな感じでしょうか。

 しかし、入り口はどうであれ、そこからファンになる人は現実問題として少なくありません。始まりは皆、ビギナーですしね。

 では、何が問題になるのかと言うと、ビギナーが訳知り顔で…つまり昔からのファンであるかのように語り始めるのが面白くないのでしょう。ことに競馬の場合、初心者も熟練者も、馬券の的中という一点においてはほとんど差がないですから。余計に感情的になるのも理解できます。

 ですけどね。ちょっと冷静に周囲を見渡して考えてもらうといいのですが、本当のコアなファンは「にわかファン」の動きについて、顔をしかめることはあっても、声高に否定などしません。“にわか”に近いファンが“にわかファン”を見下していることが多い…というのが実情ではないでしょうか。
 いずれにしても、それくらい気楽に、大きく構えてお互いのことを理解しあえればいいのかな、と思います。

 最も重要なのは“にわかファン”をどう定着させるか、ですから。

 そこに意識を向ける時、やっぱりメディアの関わり方だけは目を光らせる必要があります。“にわかファン”が生まれやすい背景がスポーツイベントに多いのも、往々にしてメディアが絡むから。今回のワールドカップに限らず、今の日本ではメディアが民意をアオる構図ができあがっています。そのアオリに乗じた人々を、そうでない人々が“にわか”と呼ぶ…。
 “にわか”でも何でも、注目してもらうことでファンの裾野は広がるでしょう。しかし注目してもらうために取った手法が、あまりにもくだらない、薄っぺらで他愛のないものだったとしたら?それに踊らされる“にわかファン”を見て、本当のファン候補がそっぽを向く可能性だってありませんか?
 つまりは「裾野を広げる」という一利を安直に求めると、百害も引き起こしかねない、ということ。無論、意図しなかったこととはいえ、決して望ましいことではありません。
 メディアが提供すべき情報は何か、それをどう提供すべきなのか。この点だけは、どれだけ検証しても、無駄にはならないように思います。

 大きなスポーツイベントが開催されて、大々的にメディアが報道合戦を繰り広げ、その結果、次々に現れては消えていく多くのファン…。これを繰り返してばかりでは、あまりにも知恵がなさ過ぎますもんねえ。
美浦編集局 和田章郎