先週の14日にブックログで紹介したテレビ朝日の『タモリ倶楽部』。ご覧になった競馬ファンの方、多いのではないでしょうか。
 内容は、弊社週刊誌で『馬を巡る旅』を執筆くださっているJRAの小檜山調教師が出演され、馬ではなく、ご自身が夏に出されたゴリラの写真集を軸に、ゴリラの生態について語る、といったモノ。
 その番組のアシスタント役(ってわけでもないのかな?)の女性がどこかでよく観た人だな、と思ったら、今年度の上半期の朝ドラ『とと姉ちゃん』に出演されていた真野恵里菜さんでした。

 そんなわけで今回は、この『とと姉ちゃん』の話からになります。
 高い視聴率を叩き出しながらも、中身の方はいろいろアレでしたが、何しろあの“暮しの手帖”の創業者の話。伝説の編集者、花森安治も当然、登場することになるのだろうと思い、なんやかやと言いながらも見続けることになりました。
 全体の内容についての細かいことはさておくとして、どこか制作側が各方面に気を使ったのか、“暮しの手帖”の底辺にある思想性について、特に政治的な話題はあまり前面に出てくることがなかったように感じられました。
 勿論、広告を取らない方針が、どこからも制約を受けない自由な雑誌作りにつながる、といったような“暮しの手帖”の唯一無二ぶりなどは描かれましたが、政治色ということではもうひとつ薄い印象が拭えませんでした。
 「戦争中の暮しの記録」の特集号を出して、大きな反響があった回なども、もっと踏み込んだ表現があるかな、と思ったら案外でしたし、後に続く情報バラエティー番組『あさイチ』の冒頭で、私の好きな「朝ドラ受け」がなかったことにも驚かされました。
 こちらが感じている以上に、NHKとしてはデリケートな話題なのでしょうか。

 ところで、“暮しの手帖”のホームページによれば、今年の始めに編集長が替わられました。それに伴ってなのかどうか、「政治色が強まった」という批判が寄せられたそう。このエピソード、上に書いた私どもの感覚とは真逆、になります。
 創刊当初の編集方針として、「政治と自分達の生活すなわち暮しとは無関係ではない」という発想があった雑誌ですから、今更何を?と思ってちょっと調べてみたら、近年はそういった側面がかなり排除された雑誌が作られていたのだとか。そこに近年の読者との誤解が生じた要因があったのでしょうか。

 これに似たような話が、夏場にネット上で話題になって、いろんな書き込みを読むことになりました。

 夏の風物詩になっている『フジロックフェスティバル』があります。それに“SEALDs”の誰某が出演する、と発表された際に、「ロックに政治を持ち込むな」といった論調の意見が出て、それに反論が噴出した、という一件。

 SEALDsがどういう団体で、中心人物がどういう人なのか、何をしたいのか、みたいなことはさておいて、無論その好き嫌いなどもどうでもいいのですが、その団体の動きをロックフェスに絡めて「ロックに政治を持ち込むな」はいささか的外れでした。
 ネット上に書き込んだ人達も、もしかすると軽い気持ちで正論風に書いたつもりだったのかもしれませんが、ちょっと安直過ぎたのか、半端ではない逆風に晒されることになったのです。

 「〝JAZZ〟と書いて〝自由〟と訳す」
 というのは、誰かのエッセイで読んだのかどうか忘れてしまいましたが、ジャズの世界の秀逸な格言(?)。
 では〝ROCK〟と書くと、どうでしょう?
 それはやっぱり、個人的な意見を許してもらえば、“反体制”になります。
 反体制の意識ベースが何なのか、が“ロック論”として語られるならまだしも、ロックそのものに「政治を持ち込むな」というのでは、ロックでなくなってしまいます。
 すると後発的に「ロックとは?文学とは?みたいな論調そのものが気に入らない」なんて意見も散見するようになりましたが、それなら余計に「持ち込むな」の理屈も有り得ないことになります。

 このあたりの話の流れから、そもそも、およそ芸術作品と呼ばれるものは古今東西、何百年以上も前から、政治的であり宗教的であり続けたわけで…。
 みたいな反論が、年代や職業を問わず、各方面から発信されることになったのです。

 “暮しの手帖”の近年の読者の反応と、この件が似ているように感じるのは、対象にまつわる時代や思想的背景をまったく考慮に入れない批判の安直さ、浅薄性です。

 調べる行為自体が今の時代は極端に簡単。“検索ワード”のクリックひとつ、です。そこに現れる文字列には、まず簡単な原因と結果が示されていて、そこにいきつくまでの紆余曲折、つまり経緯の部分がそっちのけになりがち。実はその曖昧模糊とした部分を紐解いていく作業こそが、議論を進めていく上では最も重要になるのに、です。
 今の時代だからこそ、誰しもが陥りやすい危険なワナ。今更言うまでもなく、自戒を込めて、なのですが。

 これは何も「有馬記念が一時期、その年の最終日に行われていたわけではない」ことを持ち出して、一昨日にJRAから発表になった来年度の開催日程について違和感を抱くのはおかしい、みたいなことを言いたいわけでは決してありません。
 実際問題として「12月24日日曜日に有馬記念を開催、28日木曜日に最終日」といった日程については、大変な批判、反対意見が出てくるでしょうし、おそらく次年度以降、見直す方向で再検討されるかと思われます。
 「そう決まったのなら何とか楽しもう」というポジティブ思考も、今回ばかりは「物理的に無理なものは無理」と思われておしまい、になりかねませんから。
 私どもも支持できないことは言うまでもなく、ちょっと擁護しようという心持ちにすらなれない…。
 ちょっと話が逸れてしまいました。この件はまたの機会に。

 話を戻しますと、このほどボブ・ディランが今年のノーベル文学賞を受賞することになりました。実にタイムリーだったと言っていいのか、彼の代表的な作品のひとつに『風に吹かれて』がありますが、あの詩の中身は政治色満載です。つまり、そういうものなんだと言えます。「持ち込むな」では、表現の自由を侵しかねないのです。
 それからもうひとつ。ディランのブックメーカーの人気が7番人気だったとか。有力候補の村上春樹氏を差し置いたこともですが、それより受賞そのものに驚いたように反応したテレビラジオがありました。でも、数年前から候補には名前が挙がっていたわけで、こちらの件も〝結果だけから判断した論評の安直さ〟に少しだけ通じるのかな、と思ったりして。

 『タモリ倶楽部』の内容は、真野恵里菜さんはどうなったって?
 そう、やっちゃいけない、と言いつつ、思いついた散漫な内容を書きなぐってしまいました。番組内容については、ブックログの方で触れさせていただくとして、このあたりで筆を置くことにします。
 毎度ながら大変失礼しました。

美浦編集局 和田章郎

和田章郎(編集担当)
昭和36年8月2日 福岡県出身 AB型
1986年入社。編集部勤務ながら現場優先、実践主義。競馬こそ究極のエンターテインメントと捉え、他の文化、スポーツ全般にも造詣を深めずして真に競馬を理解することはできない、がモットー。そんなわけでさまざまな経験をますます積みたいと願いつつも、今年ももうあと3カ月を切って、気持ちが急くのを隠せない今日この頃。