前々回のコラムで、5月に他界された阿部牧郎さんの天皇賞観戦記の話を取り上げましたが、もう一度だけ、阿部さんのことを書かせてもらいます。しかし、今回の話に馬は出てきません。山と飛行機の話です。

 引力の無数の腕が首にからみついてくる──。
 これは1976年の別冊文芸春秋137号に掲載された短編、『飛翔記』の一節。
 『飛翔記』は航空黎明期の空を翔け、黎明期の空に散った飛行家、渡辺信二の生涯を描いた小説です。関西初とされる自作機による滑空飛行を成功させた渡辺信二。その舞台となったのが兵庫県の高御位山(たかみくらやま)でした。

 高御位山を訪れたのは、『飛翔記』の発表から40年以上が過ぎた昨年秋のこと。その日、美浦で仕事を終えた私は、自宅には戻らずにまっすぐに東京駅へ。寝台特急サンライズ出雲に乗り込むと、山小屋のカイコ棚ベッドにもぐり込む感覚で、雑魚寝のシートに身を横たえました。
 列車は東京駅9番ホ-ムを定刻通りに発車。こうして、ひたすら西へと向かうサンライズに揺られ、浅い眠りの一夜を過ごしたのです。
 姫路到着は翌朝5時25分。普通電車に乗り換え、まだ漆黒の闇の中にある山陽本線の曽根駅で下車すると、周囲が僅かに白んでくるのを待って登山口へと歩き出しました。見上げる空には明けの明星が輝いています。

 高木の少ないこの登山道は、少し登るだけで視界が大きく開けます。何気なく振り向くと、そこに広がっていたのは茜色に染まる東雲の空でした。茜色はみるみるうちに金色へ。移りゆく空の色に足が止まります。やがて眩しい朝日が差し込んでくると、それを合図に私は再び歩き出しました。

 播磨アルプスとも呼ばれるこの山系。低山の連なりとはいえ、アップダウンを幾度も繰り返し、歩きごたえのある山道です。朝6時前に出発して、山頂にたどり着いたのは9時過ぎ。その山頂に建っていたのが〝飛翔の碑〟でした。遠い播磨灘に向け、まさに翔びたたんとする流線形の記念碑が、100年前、渡辺信二がここから大空へ翔び立ったことを示しています。
 渡辺が離陸したと伝わる崖の上に私も立ってみました。朝日を浴びながら始まったこの日の山歩き。しかし、いつの間にか空は厚い雲で覆われ、遠くには、灰色の空と鉛色の海が溶け合うような風景が広がっています。冷たい秋風も汗ばんだ体にはちょうど良く、視線を落とすことさえなければ本当に気持ちがいい……。
 しかし、ついつい足元を覗き込んだその刹那、私の首にも、あの〝引力の無数の腕〟が絡みついてきたのです。崖の下から伸びてくる、見えない無数の腕。それが首に絡みつき、そのまま引きずり込まれそうになる感覚……。そう、阿部さんが表現されたのは、まさにこの感覚だったのでしょう。目がくらみそうになった私は、一歩、二歩、そっと足を引きました。すると、〝引力の無数の腕〟は私の首からどこかに消えて無くなりました。
 飛行理論が未成熟だった時代、自らの理論だけを信じてここから翔び立った渡辺信二。『飛翔記』によると、渡辺機は最初、この崖からほぼ垂直に落下しましたが、真っ逆さまに落ちながらも、何とか体勢を立て直して空へ滑り出したとのこと。渡辺信二が、絡みつく〝引力の無数の腕〟から解き放たれたのは、まさにその瞬間だったのでしょう。
 崖の縁から後ずさった私はそこに腰をおろし、ポンと足を投げ出しました。空と海の境はもう秋霞の彼方に隠れ、茫洋としたひとつの景色となって山靴の向こうに広がっています。少し離れた所には、ひと組の登山者の姿がありました。その話し声が、鳥のさえずりとともにかすかに風に運ばれてきます。
 その日、大空に舞った先覚の瞳には、果たしてどんな景色が映っていたのだろう……。見はるかす播磨灘は今日のような鉛色の海だったのか? それとも秋の陽を眩しく照り返していたのだろうか? そんなことを考えながら、しばらくボーッと時間を過ごしました。
 そう、私が独りで山を歩くのは、このボーッとした時間を過ごすためなのです。

 ところで、渡辺信二のこの飛行を〝日本初〟とする論考もあるようですが、『飛翔記』で渡辺の生涯を描いた阿部牧郎さんはどう感じていたのでしょう? 前々回ここで紹介した通り、関東馬というだけで大本命のテスコガビーに◎を打たなかった関西贔屓の阿部さんですが、小説の中では、その快挙が日本初なのか関西初なのかには言及していません。

「この風に吹かれた阿部さんも、そんなことはもうどうでもよくなったに違いない……」

 静かな山頂で風に吹かれているうちに、私の胸にはそんな思いが湧いてきました。
 勿論それは私の勝手な憶測、いや、憶測とも呼べないような、心にうつりゆくよしなしごとに過ぎませんが……。

美浦編集局 宇土秀顕

 

宇土秀顕(編集担当)
昭和37年10月16日生、東京都出身、茨城県稲敷市在住、A型。
昭和61年入社。内勤の裏方業務が中心なので、週刊誌や当日版紙面に登場することは少ない。趣味は山歩きとメダカの飼育。
 「リレーコラム」時代から約9年間、このコラムを担当してきましたが、ついに馬の出てこない話を書いてしまいました。〝禁じ手〟はこれが最初で最後。ご容赦ください。