シンボリルドルフの日本ダービーは難波場外近くの喫茶店で遅い昼食を取りながら見ていた。この仕事に就く前で、当時は他場のレースを見ようとすると地上波の中継に頼るしかなかった。場外周辺のほとんどの飲食店には「競馬中継放映中」の張り紙など。競馬ファン頼みの店も少なくなかったのではないだろうか。同じ年のジャパンCは京都競馬場の場内テレビで見た。記憶の中ではカツラギエースの逃げ切りにリアルタイムで驚いたはずなのだが、JRAの年表によるとCATV映像の全国ネットワーク運用開始は同年の12月になっているので、ひょっとすると思い違いか、あるいは一部で既に運用されていたか、そのどちらかだろう。いずれにしても、場内やWINS、あるいはグリーンチャンネルで3場の全レースがめまぐるしく流れる今から思うと隔世の感がある。
 サッカーボーイが活躍したころにトレセンに通うようになった。普段のキャンターや追い切りは大抵スタンドから遠いBコース。同世代のオグリキャップもBコース中心の調教だった。これもグリーンチャンネルの追い切り映像でダートで行われているケースがほとんどない今から考えると信じられないが、当時はそもそもトラックはダートしかなかったのだ。坂路はできていたが、戸山厩舎、松元省厩舎など一部のパイオニアが成功しつつあった段階で、タガジヨオーの昭和63年8月の北九州記念が坂路調教による最初の重賞勝ちだった。
 その後、平成元年9月に栗東にウッドチップコース(芝の外側を改造したDWコース)ができ、ダートのCコースがウッドチップになったのは平成7年のこと。DWがニューポリトラックに改造されたのは更に最近で、一昨年の10月だった。美浦は平成4年10月に南Bがウッドチップになり、翌年10月に坂路が完成、ニューポリトラックの導入は栗東より早く平成19年11月だった。今ではどれも当たり前のことのように思うが、意外に新しくて驚く。
 馬券も長く続いた「単・複・連(枠連複)」の時代にピリオドが打たれたのは平成3年になってからで、「馬連」が夏の北海道で試験的にスタートし、10月には全国で売られるようになった。平成11年には「ワイド」が、平成14年には「馬単」と「3連複」の発売が開始されたが、インパクトが大きかったのは平成16年に後半4レースの発売でスタートし、平成20年に全レースで発売されるようになった「3連単」だろう。その間、平成15年秋には、ほとんどの競馬場内やWINSでも全場全レースが売られるようになり、誰もが好きなレースを好きな券種で買うことができるようになった。今年の4月にはWIN5というお化け馬券も出現した。
 このように、情報提供、調教施設改善、馬券の多様化と、JRAはこの20数年で打てる手は打ち、切れるカードは切ってきたように思える。売り上げの低下はJRAの努力だけではどうにもならない面もあるのでおくとして、もうこれ以上できることはないのだろうかと考えるときに、置き去りにされてきたことのひとつが競馬場・WINSの環境ではないだろうか。居住性というか、そこにいるときの快適さ。競馬場の指定席、WINSのエクセルフロアは問題ないとして、一般エリアをいかに快適にするか、もうちょっと利用者の身になって考える必要がある。3場の新聞をめくりつつ、マークカードに筆記具を持ち、携帯でオッズのチェックもしたい。喉が渇けば飲み物もいるし、腹が減ったら何か食べなければならない。これを立ったままでやろうとすると、ホントに手が6本いりますよ。どこかに座ろうと思っても、イスは新聞やレープロが置かれて占有権を主張されているし、ひと休みする場所すらない。
 グリーンチャンネルでときどき開門ダッシュの様子が映されることがあるが、これがJRAは何をすればいいかのヒントになっている。みんな席を確保したい。建前として一般席は占有不可ということになっているが、先にだれかがツバをつけたのを無視して座るひとはそうはいない。そこで、一般席を一般席のままある程度の割合で指定席にすればいいのではないか。通行証やハンドスタンプといった面倒な認証なしで、A-ハ-13など記号だけが記された指定券を自販機で安価に売るのである。そしてそこに座る。それだけだ。新幹線でも「ここは私の席ですが…」とチケットを提示すれば間違った人は譲るのであるから、大きなトラブルは起きないだろう。
 シンボリルドルフやサッカーボーイのころに比べると競馬場はどこも立派になった。しかし、それに比例して居心地が良くなっているかというと、果たしてどうなんでしょうか。

栗東編集局 水野隆弘