コロナ禍中に感じたこと-その2(和田章郎)

 こちらのコラムを前回担当した前日に、全国で緊急事態宣言が解除されました。それから1カ月以上が過ぎて、東京都では新たな感染者数が連日の100人超。この数字が危機的に多いのか、或いは検査数との比率でみるとそれほどでもないのか、といったことは、まったくの門外漢としてはわかりようがありません。

 ただ、感染者は若い人が多い、と報じられています。これとて具体的なことはわかりませんが、ステイホームが解除されたことで、たまっていた若者らしいエネルギーが一気に発散された結果、なのでしょうか。前回、仮説的に「ステイホームは年配の方がより楽しめたのかも?」みたいなことを書きましたが、そんなようなことにもつながってるのかなあと思ったり。

 タイトルを〝コロナ禍中〟にしていて、〝感じたこと〟と過去形にしちゃってますが、まだまだコロナ禍は現在進行形なのだと、自に強く言い聞かせつつ、になります。
 というわけで-

◆その2
 〝候補達の気持悪さ〟

 年によっては、かなり早い時期から「今年の〝新語・流行語大賞〟はもう決まり」みたいな〝語〟があります。何年か前の〝忖度〟などはいい例でしょう。
 勿論、今年の大賞は〝新型コロナウイルス〟以外には考えられないと思うのですが、まず最初に候補としてノミネートされる〝語〟の中にも、関連ワードが多くなりそうです。
 ま、ノミネートされるかどうか、それはわかりませんが、とにかくコロナ禍中に頻繁に耳にしたワードで、特に気になるものが2つ。

 〝不要不急〟と〝自粛警察〟

 どちらも、不快感とか、嫌悪感、みたいな感情がわいてきて仕方がありません。

 まず〝不要不急〟ですが、最初に耳にした時、本当にもう、それこそ感覚的なもの、に過ぎませんでしたが、「嫌な言葉だな」と思ったのです。
 使用例としては、テレビラジオで聞いたのはそう「不要不急の外出を控えるように」ですが、個人レベルの外出について、「重要でなく、かつ急用でもない」と、一体、誰がどういう形で判断するのでしょうか。思考や行動パターンなんて個人差があるのが当たり前ですし、ですから「重要なのか急用なのか」も個人差があります。「だから一般常識としてのこと」なんて意見もありそうですが、この〝一般常識〟も怪しくないか…?

 そんなようなことをつらつら思っていたステイホーム中。インターネットの記事に膝を叩いた一節を見つけました。〝不要不急〟の由来を解説した記事があったのです。いや由来と言うか、メディア上に初めてお目見えした時、になるのでしょうか。
 それは太平洋戦争中、それも末期のことになるのでしょう。戦局の悪化に伴い、軍が物資不足を補うために、官民の金属類を回収(今さらながら滅茶苦茶な話ですが)した、と記録されています。
 その金属類回収令(どんな法律だよ)に則って、使われていないのか利用者が少ないのかはわかりませんが、鉄道のレールを回収した、という話を聞いたことはありました。その際の回収理由に使われたのが〝不要不急の路線(のレール)〟だったそうです。

 なるほど戦時下の、軍事特別法の発令時に使われたことだったか、と、不快になった理由がストンと腑に落ちた反面、コロナ禍でそれを使うことの意味を考えた時、いやコロナ禍でなくとも、その言葉が持つ恐ろしさを改めて感じさせられてしまいました。
 「不要不急の路線」を理由にしたレールの回収には、弱者を簡単に切り捨てる現在の風潮に通ずるところがあるように思えたのです。極端すぎるとの謗りを恐れずに書けば、4年前の障害者施設で起きた殺傷事件の犯人が口にした理屈、のような。それがコロナ禍で繰り返されているのですから、「他にきちんとした対策の取り方はないのか」と思ってしまいます。

 その気分の悪さに輪をかけたワードが〝自粛警察〟です。ただし、こちらは感覚的に、ではなく、腹立たしさを覚えながら、なのですが。

 まず不要不急の外出を控えることを要請され、更に緊急事態宣言によって、経済活動に限らない様々な場面での行動自粛が求められました。この件について、ヒステリックなまでにチェックする人達が現れ、批判半分からかい半分に〝自粛警察〟という呼称が定着しました。
 小説や映画、ドラマ等でも出てきますが、〝自粛警察〟らしき役割は、それこそ戦時中には明確に〝隣組〟として機能したようです。やはりコロナ禍に見舞われた社会というのは、〝戦時中〟と同じようなもの、なのでしょうか?それが連想されるだけでも腹立たしくなります。

 ともあれ、〝自粛警察〟に共通するのは、「自分が正義である」と信じていることかと思われます。まあ、自分が正しい、と思うのは個人の勝手なのかもしれませんが、問題はその自信がどこからきているのか、ということ。〝正義〟という大義名分だけで、そこまでの自信が持てるものなのかどうか。それは往々にして「自分と違う意見を認めない」ところにまで成長(?)するのですが、その意識にいたる要因はなんなのか。
 少し前にワイドショー等でさんざん話題になったことに、女子プロレスラーの死がありました。彼女に対する誹謗中傷のSNSへの書き込みについても、自分勝手な「正義」の扱い方に、同じような思想性が感じられてなりません。

 ざっくりと思うのは、今回の〝自粛警察〟も、戦時中の隣組でもそうですし、多くの場合、何かしらの後ろ盾があったりするのではないか、ということ。虎の威を借る、ではないですけど、力のある何か(〝自粛警察〟〝隣組〟は政府がその役割を担うわけですが)に追従するだけで、自分も大きくなった気分になれる、とでも言いますか。
 そういう種類の人って、それこそコロナ禍とは無関係に、ごく身近に見られるかと思います。有力な誰かと親しくしている、仲がいい、付き合いがある、というだけで横柄に振る舞うような人。或いはSNS上で、大多数の意見に無闇に(調べつくしている人もいるでしょうが)同調してしまう人。
 ガッカリと言うより、とことん〝痛い〟人達ではありますが、コロナ禍で従来の行動に様々な制約がかかった時に、一気に噴出した、ということでしょうか。異常事態にこそ、その人の本性が出る、なんてことを言いますが、それなのでしょうか?

 そしてまた、今度は腹立たしいというより、頭が痛くなってくるのは、その〝自粛警察〟やSNSで自分勝手な正義を行使する人達に対して、何らかの罰を与えるべきだ、とか、法を整備して償わせるべきだ、と強弁する意見をネット上で見ること。それじゃとどのつまり、同じ穴のムジナになりませんか?

 とまあ、〝不要不急〟〝自粛警察〟の2つのワードに絡めて、以上のようなあれやこれやをステイホーム期間中に考えていましたが、勿論、競馬についても、無観客競馬のことや先々のこと、いろいろ考えていたわけでして…。そのことに今回はまったく触れませんでしたから、改めて次回に取り上げることにして、今回はこれにて。

 その次回の担当日は8月19日の予定。何事もなければ新潟、札幌の開催に、小倉が加わっての3場開催になっているはず。どのような形態での開催になっているのか、社会的な情勢も含めて、しっかり追いかける必要がありそうですが、とにもかくにも本当に、何とか無事に、と願わずにはおれません。

美浦編集局 和田章郎

和田章郎(編集担当)
昭和36年8月2日生 福岡県出身 AB型
1986年入社。編集部勤務ながら現場優先、実践主義。競馬こそ究極のエンターテインメントと捉え、他の文化、スポーツ全般にも造詣を深めずして真に競馬を理解することはできない、がモットー。この夏はセレクトセールも浦河にも行けないので、別の、何らかの策?を画策中。