イン・マイ・ライフ(宇土秀顕)

 人間の記憶というのは曖昧なもので、強く印象に残っていると思っていた出来事でも、そこには案外、勘違いとか、記憶のすり替えがあるものです。

 私の記憶の中にある昭和58年6月12日の東京競馬場。それは、初夏の太陽を緑の芝生が照り返す、まぶしい一日でした。ところが調べてみたところ、その日の東京は実際には曇り空。最高気温も17日ぶりに20℃を割り込んでいたようなので、その時季にしては少々肌寒く感じていたかもしれません。
 そもそも、この日の私の記憶はごく限られた時間のものです。まだ学生だった私は、その日、ひとりで東京競馬場に向かいました。いつも通り秋葉原で日比谷線から総武線に、新宿で総武線から京王線に乗り換えて府中競馬正門前で降りたことは間違いないのですが、その記憶はありません。この日のメインレースが安田記念だったことも、その安田記念がキヨヒダカ、ブロケード、イーストボーイの大接戦だったことも私の記憶からは消えていました。
 どんなに思い出そうとしても、私の記憶はいきなり東京競馬場のスタンドから始まります。いや、〝始まる〟というより、スタンドからの光景がすべてです。午前中のレースが終わり、いつも通りの、のどかな昼休みの空気のなかでメジロファントムが姿を現し、最後の疾走を見せ、そして馬場を去るまでの間……。それだけです。
 実のところメジロファントムという馬に、当初それほど強い思い入れがあったわけではありません。骨折でクラシックを棒に振っている間に、ファンタスト、サクラショウリ、インターグシケンがクラシックの栄光を掴み取りました。高校の同級生は、バンブトンコートこそ世代最強馬だと言って譲らなかったし、メジロイーグルの逃げをこよなく愛する友人もいました。シービークロスという個性派も現れました。そして気がつけば、晩成のホウヨウボーイが〝世代の顔〟になっていました。
 ともすれば、それら同期生に埋もれてしまうような存在だったメジロファントムでしたが、私が引退式のために競馬場に足を運んだのは、後にも先にもこの一度だけです。なぜか……。
 それはおそらく、メジロファントムがいつも〝そこにいる馬〟だったからだと思います。
 2歳の暮れから8歳の春まで44戦を走ったメジロファントム。振り返れば、私が高校1年の時から成人するまでの5年間、有馬記念の出馬表にはただの一度も欠けることなく、ずっとこの馬の名前があったのです。後年、この記録はコスモバルクによって破られましたが、5年連続5度の出走というのは、スピードシンボリ、ナイスネイチャと並ぶ2位タイの記録として今も残ります。さらには、春秋を通じて天皇賞にも挑むこと計6回……。ついにビッグタイトルには手が届かなかったメジロファントムでしたが、〝あと一歩〟の競馬は何度も見せてくれました。
 名脇役? いや、そんな単純な言葉で片づけられる存在ではなかったと思います。いずれにしても、古馬の頂上決戦には常に〝いるのが当然〟だったメジロファントムがいなくなってしまう……。私を東京競馬場へと駆り立てたのは、そんな思いに尽きるでしょう。

 私の記憶の話に戻ります。
 その日、メジロファントムはビートルズの『イン・マイ・ライフ』が流れるなかで、ターフに姿を現しました。涙が出そうになるくらい胸に響いてくる『イン・マイ・ライフ』でした。これまでの人生でこの曲を何回聴いたか分かりませんが、この日の『イン・マイ・ライフ』以上の『イン・マイ・ライフ』に、私は出会ったことがありません。おそらく、残りの人生のなかでも出会うことはないでしょう。不確かで、そして、いい加減な私の記憶ですが、それだけは確かな事実と言えそうです。
 当時の引退式。それは今のように、宵闇が迫るなかでカクテル光線を一身に浴びるというきらびやかな舞台ではなく、また、ターフビジョンに去りゆく英雄の姿が映し出されるということもありませんでした。東京競馬場に初めてターフビジョンが設置されたのは、この翌年のことです。私は、専門紙に熱心に目を通しながら午後の馬券検討をする人たちに紛れ、スタンドの少し上の方でその様子を眺めていました。レースの合間の昼休み、ふらっと一頭の馬が現れて、ふらっと消えていった……。遠目には、この光景がそんな風に映った人もいたことでしょう。
 この日の引退式では、やはりビートルズの『ハロー・グッバイ』も流れたと記憶しています。振り返ると、この『ハロー・グッバイ』は12年後の〝2度目の引退〟の予告だったのかもしれません。この12年後の平成7年2月19日、メジロファントムは誘導馬という第二の使命も無事に務め上げ、今度こそ本当に東京競馬場でファンに別れを告げたのです。そして平成16年12月11日、余生を過ごしていたJRA日高育成牧場で29年の生涯を閉じました。

 ここまでが、私の記憶の中にある昭和58年6月12日です。
 実は今回、このコラムの執筆を進めていくにあたって、ふと、自信が揺らいできたのです。あの日、『イン・マイ・ライフ』が流れたのは本当に入場の時だったろうか……、と。
 その点について、メジロファントムの引退式を実況され、選曲も担当された長岡一也さんに当時のことを教えていただきました。あの日の曲順を尋ねると、『イン・マイ・ライフ』は確かに入場時の曲とのことでした。そして、私の記憶にあった2曲以外にも、『ザ・ロング・アンド・ワインディングロード』など、すべてビートルズの曲を使用されたことも教えていただきました。どれもこれも本当に素晴らしい選曲です。あのメジロファントムの引退式が自分にとって特別なものになったのは、勿論、メジロファントム自身が長く走り続けたことが一番の理由でしょう。ただ、その陰で、長岡さんの素晴らしい演出があったことも改めて知りました。

 メジロファントムの生涯走破距離は全44戦で9万9400メートル。そして、この引退式で4角手前から600m疾走したことにより、ちょうど10万メートルに到達しました。最後にゴール板を駆け抜けた瞬間、長岡さんは「10万メートルのゴールイン!」と実況されたそうです。これも長岡さんご本人から教えていただきました。
 そんな素晴らしい実況すら記憶から消えてしまったのはなぜか? それはおそらく、この時の私の心が最初に流れた『イン・マイ・ライフ』の旋律で埋め尽くされていたからでしょう。

「あの日、『イン・マイ・ライフ』を流していただいて本当にありがとうございます」
 36年という長い歳月を経て、私は長岡一也さんにお礼を伝えることができました。9年間このコラムを担当してきて本当に良かった、そう思える瞬間でした。

 曇り空だったあの日の引退式……。それがなぜ、初夏のまぶしい一日にすり替わってしまったのか、その理由は今もってわかりません。安田記念の馬券はおそらく外したと思います。

 美浦編集局 宇土秀顕

宇土秀顕(編集担当)
昭和37年10月16日生、東京都出身、茨城県稲敷市在住、A型。
昭和61年入社。内勤の裏方業務が中心なので、週刊誌や当日版紙面に登場することは少ない。趣味は山歩きとメダカの飼育。
一度電話を終えたあと、ご自身の資料を確認された長岡一也さんから、もう一度、ご丁寧に連絡をいただきました。36年前もそして今回も、本当にありがとうございました。なお、私の『トレセン通信』はこれが最後。来年からは栗東の坂井TMが加わります。『リレーコラム』当時から9年間、ありがとうございました。