どこを駆けた?太夫黒(宇土秀顕)

 源平争乱の世、一の谷の戦いで源氏側が仕掛けた逆落とし。愛馬の太夫黒に跨って断崖を駆け下りた源義経はこの大奇襲で一躍その名を挙げました。

 その逆落としについては一昨年も当コラムで取り上げています。当時、神戸の鈴蘭台から六甲山系の菊水山を越えて奇襲の舞台とされる鵯越を実際に訪れたのですが、〝岩肌剥き出しの断崖から斬り込む〟という場面を勝手に思い浮かべていた私は、青々と草木の生い茂る現場を目の当たりにして、今ひとつ納得できぬまま鵯越を後にしたのでした。

 さて、本来ならそれだけの話。しかし鵯越を訪れた3カ月後、800余年の時を経て太夫黒が甦ったことで話は続きます。もちろん、太夫黒が本当に甦ったわけではありません。この中世の駿馬の名前を受け継いだ競走馬タユウグロが阪神でデビューを飾ったのです。漆黒の駿馬がいつの間にか鹿毛になったことはこの際、置いておきます。

 タユウグロのデビュー戦は16頭立ての16着。先代(?)に顔向け出来ないような完敗を喫しました。しかし、2戦目に選んだ園田の交流戦では8番人気で2着に大駆け。この激走を知り、〝タユウグロはやはり勇名を授かった馬なのだ〟と、妙に感心したものです。

 しかし、これでも話は終わりません。なぜなら、その交流戦のレース名が鉢伏山特別だったからです。国内には数多くの〝鉢伏山〟がありますが、兵庫県にある六甲全山縦走路の最初の一座である鉢伏山もそのひとつ。そして、この鉢伏山から鉄拐山に続く〝須磨アルプス〟と呼ばれる山域こそ、鵯越と学説を二分するもうひとつの逆落としの舞台なのです。鵯越を訪れても納得できない思いが残っただけに、このタユウグロの奮闘で私の思いは一気に須磨アルプスへと傾きます。

 ということで、須磨を訪れたのは昨年6月のことでした。朝5時半に三ノ宮から乗り込んだJR神戸線。列車は須磨浦に近づくと徐々に海岸沿いに進路を寄せ、やがて輝く海面が手の届くほどの距離に迫ったところで塩屋駅に到着。そこで山陽電鉄に乗り換え、ひと駅だけ戻った所が須磨浦公園駅でした。観光地然とした駅前ですが、それだけに早朝は人影がありません。閑散とした駅前広場を抜けて登山口へ向かいます。

 ロープウエイが架かる山を歩くのは本来無粋なものですが、ところどころで姿を現す須磨浦の美しさがそんな思いを打ち消してくれました。鏡のように穏やかな内海。遠くに見えるタンカーがその海面に航跡を残しながらゆっくりと西へ進んでいます。しかし、30分ほどであっけなく辿り着いた山頂は、〝山上遊園〟の名の通り人工の構造物だらけ。今回の山旅のキッカケとなった鉢伏山とはいえ、あまり長居する気になれず、少し足を休めて鉄拐山へと向かいます。

 途中の旗振山を越え、鉄拐山に辿り着いたのは午前7時過ぎでした。今度は眺望が東に開け、足元の稜線が六甲の核心部へ続いている様子が明瞭に見て取れます。ちなみに、逆落としを巡る論争における〝須磨アルプス派〟の主張では、この鉄拐山の南斜面こそが逆落としの現場とのことです。

 しかし、前年訪れた鵯越と同様、現場に立ってみても実感はいまひとつでした。まあ、源氏方も標高234mの山頂から一気に攻め下った訳ではないでしょうから、実感が湧かないのは当然かもしれません。ただ、「鉄拐山の南斜面では馬が駆け下りるには急峻過ぎる」という〝鵯越派〟の主張が、妙に説得力を帯びてくることも確か。確かに、とても無理と思えることをやってのけるから奇襲になるのでしょうが……。

 では、800年前の太夫黒はいったい何処を駆けたのか? 梅雨の晴れ間が広がる空を見上げて私はしばし考えました──。

 そもそも逆落としを巡る学説が二分されるのは、鵯越と一の谷が8キロも離れているためです。鵯越派は「一の谷は現在と違う場所にあった」と主張し、須磨アルプス派は「鵯越こそ現在の鵯越を指すものではない」と言って譲りません。また、この奇襲に義経はいなかったという説もあれば、そもそも逆落としなどなかったという説も根強くあるのです。

 ふと思い出したのは、畠山重忠が愛馬を背負って崖を下りたという話でした。荒唐無稽なその逸話は勿論創作でしょう。

 そう、もともと曖昧で、あやふやで、どこか怪しくて、そして、作り話も多いのが歴史の伝承。しかし、それを分かっていながら、曖昧で、あやふやで、どこか怪しい物をついつい追いかけてしまうのは、そんな山旅もまた楽しいからなのです。

美浦編集部 宇土秀顕

宇土秀顕(編集担当)
昭和37年10月16日生、東京都出身、茨城県稲敷市在住、A型。
昭和61年入社。内勤の裏方業務が中心なので、週刊誌や当日版紙面に登場することは少ない。趣味は山歩きとメダカの飼育。その後、タユウグロは残念ながら未勝利のままで中央の登録を抹消。ゆかりの地である園田競馬へ移籍しました。
 
鉄拐山山頂から一の谷方面を見下ろす