桃源郷に消えた馬(宇土秀顕)

 

▼黒駒は霊峰を飛び越える
 去る4月14日、毎日新聞1面コラムの『余録』で、来年度から使用される一部の日本史教科書において、聖徳太子架空人物説が取り上げられるとの記事を目にしました。つまり、聖徳太子はいなかったということ。この架空人物説の根幹を成すのが、これも毎日新聞が以前に大きく取り上げた、ある歴史学者の主張。すなわち、「聖徳太子とは、厩戸皇子という実在の人物を借りて作られた為政者の理想像である」という説です。
 取り立てて聖徳太子に興味があるわけでもない私。太子が“実在”でも“架空”でも構わないのですが、たしかに、聖徳太子にまつわる伝承には奇想天外なものが多く、そんな伝承があるからこそ、架空説が妙に納得できてしまうのも事実。その、後世にまで伝わった伝承のひとつに、“飛翔伝説”なるものがあります。これは、飛鳥の里を旅立った聖徳太子が霊峰・富士の頂を越えて信州に下り、僅か3日後には再び飛鳥の地へ戻ってきたという話。このとんでもない“弾丸ツアー”がなぜ成功したのか……、いや、成功したという話が成り立ったのかといえば、そこに甲斐の黒駒という立役者がいたからに他なりません。

聖徳太子を乗せて甲斐の黒駒が飛び越えたという霊峰・富士山。

 この飛翔伝説をもう少し詳しく紹介すると……。聖徳太子がまだ若かりし頃に、全国各地から献上された数百頭の貢馬(くめ)の中から一頭の馬の卓越した能力を見抜いて、これを飼育させました。数ヵ月後に聖徳太子が跨ると、その駿馬は大空高く舞い上がり、そのまま東国へと向かいます。そして、飛鳥の里から数百キロ彼方にそびえる富士山までたどり着くと、その富士の山頂さえも軽々と飛び越えて信濃の国へと舞い降り、3日後には飛鳥の都に帰ってきたというのが大まかな内容。そして、漆黒の馬体に映える鮮やかな四白、甲斐の牧から献上されたその駿馬こそが“甲斐の黒駒”だったのです。
 甲州育ちの黒駒にとって、富士山は生まれ故郷にそびえる名峰。後世に名を残す偉人を背に、それはまさに、ふるさとへの錦衣行だったのかもしれません。
 一方、黒駒に跨っていた聖徳太子といえば、もともと、厩で生を受けたとされる“厩戸皇子”。相馬眼にしろ、また、馬を御す技術にしろ、人並み外れた才能があったとしても、確かに話としては辻褄が合うわけです。
 ちなみに、この飛翔伝説は聖徳太子が没してから約200年後に創作されたというのが通説。聖徳太子が実在した否かはともかく、2世紀も前に生きた人物の中に理想の為政者の姿を創り上げ、それを信仰対象にまで昇華させようとする意図が、この伝説の裏に見え隠れします。まあ、古今東西、このような話を作って生身の人間を神格化するのは決して珍しいことではありませんが……。

▼伝承ではない甲斐の駒
 さて、伝承に関する話はここまでにして、実際の史実を振り返ってみると、かつて甲斐の国には3つの御牧(古代の牧場)が存在し、それらの牧からは、聖徳太子のお手馬に限らず良質の馬が数多く中央に献上されていたという記録が残っています。ちなみに古代、諸国の御牧から馬が献上されていたことは、以前、望月の牧のコラムでも紹介した通り。もともと、“甲斐の黒駒”はそれら甲州の牧で生まれた馬の総称でした。そして、古代御牧の制度が消滅してからも、この地では多くの馬が生産され続け、“黒駒”という呼称はともかく、日本の在来種としての“甲斐駒”が近代まで脈々とその血を伝えていたことは間違いありません。

 しかし、古代から駿馬として名を馳せた伝統ある甲斐駒も、純血種として現代に遺伝子を伝えることはできませんでした。
 甲斐駒をはじめ、かつての日本には数多くの在来馬が人間と生活を共にしていましたが、純血種として現代に子孫を残しているのは、一度絶滅しかけながら戻し交配により復活した木曽馬を含め、北海道和種(いわゆる道産子)、御崎馬、対州馬、野間馬、トカラ馬、宮古馬、与那国馬の8種を数えるのみです。
 多くの在来馬が、なぜ純血種の子孫を今に残せなかったのか……。その大きな理由になったのが2つの法律。日清、日露戦争の経験により軍馬増強の気運が高まる中で成立した明治34年の「馬匹去勢法」、これを更に徹底強化する目的で施行された昭和14年の「種馬統制法」です。これらの法律により、日本古来の在来種は大型の洋種との配合を強要され、結果的に、古くから日本にいた在来馬の多くが、この国策の犠牲となって姿を消しました。
 ちなみに、現在まで残る前述の8種の繁殖地を見ると、そこは山深い地域であったり、離島であったり……。つまり、人の目が届きづらい、いささか不便な環境が、それら在来馬を絶滅の危機から守る盾になったのでしょう。8種のうち唯一本州で生息していたのが木曽馬で、それも、戻し交配によって辛うじて血を繋いだという事実が、その証明に他なりません。
 これら、現代に純血の子孫を残す在来種に対し、大都市圏から近く、交通の便も比較的に良い甲府盆地で営みを続けていたのが甲斐駒たち。彼らには自らを守る術もなく、富国強兵の時流にさらされ、人間の思惑に翻弄され、遂にその血は途絶えてしまったのです。

▼桃源郷の伝説
 新宿7時ちょうど発のスーパーあずさ1号で、かつて甲斐駒が闊歩していた甲州の地を訪れたのはこの4月。文献によると、甲州における古代牧の中心的存在は、茅ヶ岳山麓に開けた穂坂牧(現在の韮崎市穂坂町)とのことですが、私が訪れた笛吹市(一宮桃源郷)にも、そのものズバリ、“黒駒”の地名が……。古代、この周辺でも甲斐の黒駒の営みがあったことが窺い知れます。
 それにしても、数ある日本の花の風景の中でも、甲府盆地を彩るこの桃の花は格別。残雪眩しい南アルプスや八ヶ岳の峰々を背にして、あたり一面がピンク色に染まる光景は、まさに桃源郷と呼ぶに相応しいものと言えるでしょう。

 春陽に眩しい桃畑。その中に佇むと、確かに俗界とは隔たった空間にいるような錯覚に陥る。黒駒がひょっこりと顔を出しても不思議ではなさそうだが……。

 桃の花が咲き誇る林の中に、世の中の争いごとや、時代の移り変わりといったものとは無縁の平和な世界がある。そして、俗界から吹いてくる風を桃の花がすべて守ってくれる。そんな中国の故事に由来するのが桃源郷。
 その血が途絶えたとされる甲斐駒ですが、本当にそうなのか? この甲府盆地に広がる桃源郷のどこかで、中国の故事よろしく、時代の流れとは無縁の営みを続けてはいないだろうか? それは四白の黒駒だったりしないだろうか? 気が向くと富士山を飛び越えたりしていないだろうか?
 そして、“聖徳太子架空説”を鼻で笑ったりしてないだろうか……。

美浦編集局 宇土秀顕