オートレースが大好きで、3年前に亡くなった名物TM小宮先輩に聞いたか、いつも平日のギャンブル場で落ち合う友人に聞いたのかは忘れた。ある日の、とあるオートレース場での出来事。
そう大きくないレース、まあJRAで言うところの平場戦で、圧倒的人気を背負っていたある選手が、ちょっと油断したのか何だかわからないけれども、考えられないようなところで落車してしまったそうな。当然、場内は騒然となったわけですが、そのくらいのことならJRAは勿論、他のギャンブル場でも見られないことではないので驚くほどではありませんね。ところが、次のレースの試走(レース前の展示みたいなもの)が終わった後、その落車した選手がコースに出てきて、メインスタンドのファンに向かって、
「すみませんでした」
と頭を下げたのだそうです。レーシングスーツは破れ、肩や膝、いや体中いたるところが血で滲んでいるような状態で。
多くのファンが呆気に取られ、いやむしろ、それまで見たことのない光景にある種の感動にも似た空気が流れる中、よれよれ姿のオヤジさん、これは本当に初老の方だったみたいですが、その人がスタンドとコースを隔てる金網に近づいて行って、その選手に声をかけた。その言葉が、
「くたばれっ」
だったそうです。
この話。自分がその場に居合わせなかったという決定的な弱点があり、経緯や前後関係は勿論、細かい内容に関しては曖昧な部分も多く、もしかすると多少誇張された可能性もなきにしもあらずなので、強い論拠として話を進めることはできません。ただ、聞いた際に、車券を取られた人の感覚として、いかにもストレートだなと感じたことは確かです。そしてまた、JRAに舞台を移して考えた際に、いかにJRAのファンが大人しくて紳士的であるか、ということも…。
一世を風靡した傑作漫画『がんばれ!!タブチくん!!』に、“新企画”というタイトルの8コマ作品があります。
試合が終わって、球団職員に「お立ち台に」と促されたタブチくん。「4打数4三振、サヨナラエラーを含む6失策の僕が?」と問い返すと、「アンチヒーローインタビューというファンサービスの一環」なのだという。不審に思いながらも手を振りながらお立ち台に立つと、インタビュアーやカメラマンがサッと姿をくらませる。で、ファンが空き缶やゴミを罵声とともにタブチくんに投げつけて、その日の敗戦のウサを晴らす。それを“ファンサービス”と呼ぶという、この作品ならではのブラックな内容。
又聞きではあるのですがオートレース場で現実にあったこと、そしてフィクションではありますが秀逸なギャグ漫画。この二つが頭にあったものですから、何年か前に有馬記念のレース後、つまり一年の締め括りにジョッキーが“忘年会”と称したトークショーなるものを“ファンサービス”として行う、というイベント告知を見た時には、正直、驚いたものでした。悪い冗談か何かか?と。
JRAのファンは“大人しい”、“暴動など起こさない”、“危険はない”。そういう大前提はわからなくはないですが、つい1時間ほど前に賞金総額が4億円近く、1着賞金1億8千万円のビッグレースがあって、その争奪戦を繰り広げた当事者達が一同に介して和気あいあいとレース回顧をする。これについて違和感を覚えるファンはいないだろう、と考えるとしたら、それはどこかしら感覚がズレているようにしか思えない。
特殊な技術と才能を持った人達が、特別な世界で生きているわけですから、同業者同士で仲が良くなるのは必然で当たり前のことでしょう。でも、いかに特殊な社会であると言えども、皆が皆、仲良しなんてことはありえないんじゃないでしょうか。その選ばれた数人が、日本で2番目に高額な賞金レースを争った直後、団欒する…。「折り合いをつけるのに必死になっているのを、後ろから見ていて笑いをこらえてた」なんて話すのを、ファンに見せても良い事は何ひとつない。ひょっとしたら親近感を持つ人もおられるかもしれませんが、むしろ誤解する方が多くないですか、普段から馴れ合ってるんだな、と。
八百長問題で揺れに揺れた相撲界ではないですが、こと勝負の世界では、普段から馴れ合っているのがわかると興醒めです。そんなの当たり前。名古屋場所も入場者激減だったようですが、一度失った信頼を取り戻すのは容易ではないということでしょう。競馬に関して言えば、ファンはお金を賭けて見ています。その多くは常に真剣勝負だと思っているし、その勝負に対する思いは関係者も同じだろう、と信じてますからね。もしかしてそうじゃないのかも、なんて印象を持たれたら大変。馬券の売上で成立している日本の競馬の場合、馬券は売れなくてはならないのですから。とにかく、ファンサービスでファンと触れ合おうというのなら、“感謝デー”のような日を設けて大々的にやればいい。何もレース当日に、その直後にやって、妙な誤解を招くことはないように思いますけどね。
ま、こんな意見は実はごくごく少数派で、心配性の一編集者の杞憂に過ぎないかもしれません。だって毎年、中山最終日は暴動も騒ぎも起きずに平穏に終わっていますし、オートレース場のオヤジさんも、タブチくんにゴミと罵声を浴びせるようなファンも現れていないのですから。もっとも、そういうファンはとうの昔に競馬場から離れていってしまっている、という可能性も考えられるのですが…。
美浦編集局 和田章郎