清々しいお正月(吉田幹太)

 正月を美浦で過ごすことになった。
 4日に金杯、2日に出馬と決まったからである。
 調教は例年通りに元旦が休み。実家のある仙台に帰省するのは厳しいが、一旦、自宅に帰る手もあった。しかし、自宅に帰ってもひとり。狭い部屋でひとり、行く年くる年を見るのはなんとも寂くて…。ならば、同じように美浦に残る友人を当たって年を越すほうがマシなような気がした。

 美浦で正月を過ごすのは今回が初めてではない。6年前にはほぼ同じ日程で、そのときは元旦に調教が行われた。当社にも美浦に残るスタッフが多く、調教班でお金を出し合っておせち料理も用意した。しかし、自分はそのおせち料理に手をつけることができなかった。風邪をひどくこじらせたのである。熱にうなされて、まったく意識がないまま年を越し、元旦はほとんど何も口にできなかった。ダイエットにはちょうど良かったかもしれないが、今にしてみれば苦い思い出でしかない。

 同じ轍は踏みたくない。それに寂しいのも嫌だ。予想していた通りに美浦に残りそうな友人をつかまえて、彼の会社で鍋をしながら過ごすことに決めた。結局、2人だけだが、それでも話し相手がいるのはすくわれる。年齢を重ねてしまったせいか、めっきり、寂しさに弱くなっているようで…。

 宴会は夜の8時少し前に開始。31日は2014年で一番多くの馬が追い切った(!)ため、それぞれに仕事が押してしまったことが原因だが、遅く始めた方がほどほどの酔いで新年を迎えられる計算もあった。人もまばらなスーパーで買い物をして、彼の会社に向かうと飲み仲間の先輩がまだ仕事をしていた。ダメもとで誘ってみたら、案外、乗り気。「じゃあ飲んでいくか」という話になった。これじゃ完全にいつもの飲み会だな、と思いながらも、にぎやかな方が断然いい。ちなみに、その先輩も友人も独身である。

 紅白ではなく、ボクシングを見ながら鍋をつつき、ほぼ計算通りにいい酔いで行く年くる年にたどり着いた。3人で除夜の鐘を聞きながら、一応、あらたまって挨拶をしたのは結構、楽しかった。イベントに大勢で参加して、楽しそうにしている人たちの気持ちが少し分かったような気がした。

 自分にはそのあと、もうひとつのイベントが待っていた。酔っているために車に乗ることはできない。タクシーを頼むか、そこに泊まるという手もあったが、2015年には強い決意がひとつある。やせるのである。やせるというよりは、2年前の普通の肥満まで戻すというのが正解なのか、とにかく、年末までに10キロやせることを心に誓っていた。
 そうなるとやることはひとつ。我が社まで小一時間の道のりを歩いて帰ることである。友人には散々止められた。外は極寒、しかも酔っているのである。「ちょっと寝て帰ればいいじゃないですか」とか、「寝ていける部屋はありますよ」とか、普段、階段をほとんど使うことのない自分を知っているだけに、自殺行為だと思ったのであろう。
 しかし、決意は固く、スーパーで買ってあった伊達巻とイチゴをぶらさげながら外へ。調子が良かったのは、最初の1ハロンくらいだったろうか。すぐに足の付け根が痛くなり、呼吸も荒くなってきた。引き返そうかと思ったが、ただでさえ、ひと気のない美浦の夜道が、更に静まり返っている。正面にはオリオン座がいつも以上に輝いて見える。なんとも気分がいいじゃないか。怪しい人のように思われることもなく、ゼエゼエ言いながら歩いていても気持ち悪がられることもない。これで重力がなかったら宇宙遊泳をしているようだ。

 そんな風にごまかしごまかし、無理せず無理せずに何とか会社にたどり着いたのはもう1時過ぎ。下着もトレーナーも汗でびしょびしょになっている。まさにいい汗だ。新年からなんて清々しいんだろうか。いい正月じゃないか。

 しかし、翌日は昼まで眠って、いつものようにコンビニで弁当を購入。地上波のテレビはお正月番組だらけで、なんだかうっとうしいような、取り残されたような…。やはり、実家のおせちに雑煮、そして久しぶりに家族で過ごす時間は何事にも替え難いか。今年の年末は是非、スマートな姿で、いつもの当たり前の年越しができることを願ってしまいました。

美浦編集局 吉田幹太

吉田幹太(調教担当)

昭和45年12月30日生 宮城県出身 A型
道営から栗東勤務を経て、平成5年に美浦編集部へ転属。現在は南馬場の調教班として採時を担当、グリーンチャンネルパドック解説でお馴染み。道営のトラックマンの経験を持つスタッフは、専門紙業界全体を見渡しても現在では希少。JRA全競馬場はもとより、国内の競輪場、競艇場、オートレース場の多くを踏破。のみならずアメリカ、オーストラリア、ニュージーラント、フランス、イギリス、マレーシア、香港などの競馬場を渡り歩く、案外(?)国際派である。