年末の記憶で(吉田幹太)

 2003年12月30日。人で溢れかえっていたグランプリ当日の京王閣競輪場。今は影も形もなくなってしまった京王閣名物のジャンボスタンドに陣取ること1時間半。車券は頼まれた分も自分の分も“顔見せ”の前には買ってポケットに忍ばせてある。

 調べてみたらこの日の東京は快晴で最高気温が13度。おそらく、夕方4時を回る頃には10度は切っていたはず。大勢の人の中で立ちっぱなしでもさすがに体が冷えていた記憶がある。

 選手入場のうるさい曲が質のあまり良くないスピーカーから割れながらガンガン響いてくる。ここで自分も場内も興奮が最高潮に。寒さなどすっかり忘れて奥歯をグッと噛みしめながら選手を睨みつける。

 最初の何周かは多少、静かに見れていたが、ちゃんといい位置を取ったの筈なのに、赤版を過ぎたあたりから回りの動きや怒号やら興奮やらで何が何だか分からない感じに。

 当時はまだ大型ビジョンもなくて、ゴールをしても当たったかどうかの良く分からなかったよう気がする。

 そして決定放送。1着6番山田裕二……

 2日前のシンボリクリスエスが圧勝した有馬記念、前日のスターキングマンが勝った東京大賞典は見当違いな結果。最後の望みを託したKEIRINグランプリでようやく当たった。

 帰る頃には日も暮れてかなり寒かったが、ほっとして本当に救われたような気分でうれしかった。

 そして、その日の内には美浦へ向かって大晦日は最後の追い切りを見て仕事納め。

 当時としては珍しく大変な年末だったけれど、それだけによく覚えているのかもしれない。

 いまや2017年からホープフルSがほぼ12月28日に固定。

 2003年と同じ日程が当たり前になってしまった。

 それでも当時の熱気や元気が今の自分にはなく、仕事自体も皆で分散してできるようになった。

 おかげで毎年、帰省することができる。そして年末の公営ギャンブル行脚も現地に行かずにネットで買ってテレビ、もしくはスマートフォンで見ることに。

 体は楽になって、あらたに競艇のクイーンズクライマックスやオートレースのスーパースター王座決定戦まで楽しめるようにもなった。

 しかし、やはり強烈な記憶として残ることはない。

 他のお客とぶつかりながら、1時間以上も立ってレースを待つという普段はあまり味わない状況。大歓声の中で訳も分からずに大声を出していた記憶。または雪が積もる中での帯広ばんえい競馬なども忘れることができない記憶として残っている。

 もちろん、今の非常に便利で、手軽にあらゆる競技が見れるというのは大歓迎で素晴らしい。

 その一方で非日常の状況がそもそも気分を高揚させて、レースの内容次第では興奮も頂点に達するのではないだろうか。

 こと勝負においては環境のいい状態で考えるのが一番いい。

 それだけではない余興というのか娯楽というべきか。その意味ではやはり現地まで出かけて楽しむことが一番なんではないかと、この年末につくづく感じた。

 考えてみればコロナが5類感染症になってからは競馬場も連日、お客さんで溢れかえっている。

 それもコロナ前には見かけなかったような世代の方が多い。逆にネットや映像から競馬に興味を持って、現場に行こうと思ったファンなのかもしれない。

 この手のお客さんならきっと競馬を気に入ってくれて、長く続けてくれるかもしれない。

 いずれにしても非日常と興奮をずっと伝えていけるレースが続いてくれればお客さんも喜ぶはずで、自分もうれしい。

 あらためて、その一端を担えるように頑張ろうと思える新年になったかな。

 あとは自分の馬券と懐具合がもっと良くなれば……

 欲はあまり出さずに地道にやっていきましょう。

美浦編集局 吉田 幹太

吉田幹太(調教担当)
昭和45年12月30日生 宮城県出身 A型
道営から栗東勤務を経て、平成5年に美浦編集部へ転属。現在は南馬場の調教班として採時を担当、グリーンチャンネルパドック解説でお馴染み。道営のトラックマンの経験を持つスタッフは、専門紙業界全体を見渡しても現在では希少。JRA全競馬場はもとより、国内の競輪場、競艇場、オートレース場の多くを踏破。のみならずアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、イギリス、マレーシア、香港などの競馬場を渡り歩く、案外(?)国際派である。