伝える側の資質(和田章郎)

 先月末に「またしても出た」という感じで報じられたお役人の『不適切発言』。その後、福島の農家について某大学教授もツイッター上の発言が物議を醸していましたが、こちらは比喩が不適切云々以前の話。あ、それはさておいて、防衛省の局長の発言については、その中身がとんでもないことなのは言うまでもないとして、しかし、それはそれとして思うところがありました。敢えて『オフレコ問題』と言ってもいいでしょうか。

 今年に限らず、近年どんどん増えている気がするのが『言葉狩り』の風潮。いや『言葉じり狩り』でしょうか。何しろ現代は、誰でも簡単にネット上の“公”の場で、文字を暴力的に使うことができるようになっています。書かれていることに対する反論もすぐにできるわけで、そのやりとりがヒートアップするのは自然な流れ。泥仕合化しても不思議はないですし、その結果として炎上だなんだと物騒な話になっていくんでしょう。映画などでは、暴力シーンでも何でも、表現が過激だと“何とか指定”を受けたりして一部に歯止めもかかりますが、ネットの世界は全部スルー。仲間内でなら汚らしい罵り合いでも何でも、いくらでもしてもらって結構ですが、関係のない人間がそういうモノを見せられると、正直、嫌~な気分になります。
 そういう世界だからこそなのか、求められる重要な資質として“ネットリテラシー”という言葉がしばしば使われます。目にしたり耳にしたりした情報を、いかに摂取して、消化し、利用するか、という判断力を指すのだとか。でもそれって、取り立てて目新しいことではないような気がしますね。ところが、ネット上でそれが重要なことだと認識されているわりには、あまり浸透してなかったりするんでしょうか。
 そう考えつつの『オフレコ問題』。
 酒の席で「オフレコです」と約束しておいて、でも取材対象者が“とんでもないこと”を口にしたからリークする、というのは、あくまで話の中身はさておくとして、どうなんですか。「今の時代、オフレコという概念は捨てた方がいい」なんてことも耳にしましたが、それは論点のすり替え。仮に「記事にしない」と約束したとしたら…。
 そもそもの話。初対面の相手もいる記者会見の場と、旧知の人ばかりの場では、口調から話す中身まで違って当たり前。それは経験上、知っています。だからこそ、取材者が取材対象者と濃密な関係性を築くには、長い時間がかかります。その結果として、時として“いいネタ”が拾える。そうだったはずです。
 それを、核心を突いた重要な部分で、もしも片方が約束を破ったらどうなるか。信頼をベースに成り立っている関係性は解消されてしまうでしょう。そして「2度とあなたとは話さない」ともなりかねない。これは、『勘違いしたマスコミ嫌い』の人々が、面白くないことを書かれた報復手段としてしばしば用いる“取材拒否”とは背景が異なります。ともかく、2度と面白いネタを読んだり聞いたりすることができなくなる。
 最近の政治記者さんの間では“メモ合わせ”と呼ばれる作業があって、各社各人の取材ノートを照らし合わせて記事をまとめるような慣習があるそうですが、同席していた他の記者さん達、この件にどんな印象を持ってるんでしょうか。最前線の記者として、“取材源の秘匿”という大前提について、どういう認識を持っておられるのか。つまりは自分達の仕事を、どう考えているのか…。こちらに“知る権利”は勿論ありますが、それを主張することとは別問題として、「オフレコでお願いね」という了解がなされた酒席で口にしたことが、大々的に報じられることというのは、どうにも???と感じてしまいます。繰り返しますが、報じられた発言の中身とは関係なく、です。
 あるいは、もし…もしもです。「あんな暴言を吐いたのだから、どんな事情があろうと糾弾されて然るべき」という考えがあるとしましょうか。ではそれを“ひとりよがりではない正義”として行使するだけの見識、知性、社会的なバランス感覚、といったようなものを、一記者がどんなふうに持ち合わせているのか。「どんな事情があろうと」という思想(と敢えて置き換えますが)を強硬に進めるなら、記者の資質は余計に厳しくチェックされなくてはなりません。情報を受け取る側の判断力には、こういったことも含まれるでしょう。
 発信する側の責任も、まさにそこにあるのではないかと。やっていいことといけないことや、やったことがどういう結果を導くのか、といった判断には難しいことも多々ありますが、でも、そこを鍛えてこそ。情報を受け取る側の“リテラシー”が問われるのと同様に、情報を発信する側にも問われる物がヤマとある。そこのところは、どちら側に立つにしても、注意深く向き合う必要があるんでしょうね。
 ともかくも、取材対象者がブログやツイッターなどのツールを使って、従来とは違う形式で重要なことを発表するのが普通になってきた時代。取材者が当たり前のように持っていなくてはならなかった資質、力量といった物が、今更ながらより様々な意味で問われることになってきた、ということは間違いありません。まったくもって、己を省みながらつくづく思う次第です。

 私が担当する今年最後の当コラム。東日本大震災、原発事故があって、いろいろと考えることが多かった一年ですが、締めもまたまた反省じみた弁になってしまいました。失礼しました。来年は違う路線も模索しなくては…。
 なにはともあれ、この一年、ありがとうございました。

美浦編集局 和田章郎