前回の続きです。
太夫黒が駆けた逆落としの舞台をこの目で見てみたい……。そんな思いから一昨年6月に鵯越を訪れ、昨年6月には須磨アルプスを歩いたことは既に書いた通りですが、今年1月、これも太夫黒ゆかりの地である高松市の屋島を訪れました。
昨年の秋に続いて再び寝台列車の旅。その日、美浦で仕事を終えて東京に出た私は、東京駅10番線に滑り込んできたサンライズ瀬戸に乗り込みました。22時発のサンライズは寝静まった街をひたすら西へ。空が赤く焼けはじめたのは瀬戸大橋を渡る少し前でした。鏡のように穏やかな払暁の海を越え、眩しい朝日が顔を覗かせたのは坂出を過ぎた頃。こうして、生まれて初めて四国の地を踏んだ私は、1月とは思えぬ穏やかな陽気の中、高松から琴電に乗って屋島へと向かいました。
屋島といえば源平争乱における合戦の舞台として知られていますが、実は太夫黒の終焉の地として伝わる場所でもあります。
ただ、太夫黒は合戦で命を落としたわけではありません。屋島の合戦では、大将・源義経の盾となって敵方の矢に倒れた武将がいます。それが佐藤継信。義経は自分の身代りになったこの家臣の死をたいそう悲しみ、継信を手厚く弔ってもらうため、合戦の地に近い志度寺(現在のさぬき市)の僧侶に愛馬の太夫黒を寄進したという伝説があるのです。『太夫黒の涙』として伝わるこの話、更に続けると……。
これまで、生死をともにして戦ってきた義経と離れ離れになってしまった太夫黒。その後しばらく志度寺で飼われていたそうですが、ある日突然、姿を消してしまいます。人々が探し歩いた結果、太夫黒が見つかったのはあの佐藤継信の墓前でした。前夜から降る冷たい雨に打たれて体も弱り、もう首を上げる力すら残っていなかった太夫黒は、継信の墓に寄り添うように横たわっていたそうです。そして、駆けつけた寺の人が首をそっと撫でてやると、ハラリと涙を流し、そのまま息を引き取ったと伝えられています。
自らの死期を悟りながら、主人だった義経のもとへ駈けつけることも叶わなかった太夫黒。かつて、その身を挺して義経を守った佐藤継信の墓前まで何とかたどり着くと、継信の魂とともに義経の無事を祈りながらその生涯を閉じたのでした。
これが『太夫黒の涙』のあらましです。前回も書いたように、もともと歴史の言い伝えにはあやふやなものが多く、この話もどこまでが史実なのかは分かりません。脚色された部分も少なくないと考えるのが自然でしょう。しかし、琴電志度線の八栗(やくり)駅から徒歩数分の水路のほとりに佐藤継信の墓が建ち、その継信の墓に寄り添うように太夫黒の墓標があることは紛れもない事実。太夫黒はやはり、この地に眠っているのだと思います。
太夫黒の墓標を後にして標高292mの屋島山上に登ってみると、そこには絶景が広がっていました。香川県最高峰の竜王山を擁する讃岐山脈、のどかに船が行き交う瀬戸内海、その向こうに浮かぶ小豆島……。風の凪いだ内海は相変わらず穏やかで、行き交う船がなければ時間が止まったのでは、と錯覚してしまうような風景でした。
なるほど、この屋島の地こそ、太夫黒が静かに眠るのにふさわしい場所なのかもしれません。
美浦編集局 宇土秀顕
昭和37年10月16日生、東京都出身、茨城県稲敷市在住、A型。
昭和61年入社。内勤の裏方業務が中心なので、週刊誌や当日版紙面に登場することは少ない。趣味は山歩きとメダカの飼育。
京都の新年会前日に足を延ばした初めての四国。6時間半の滞在でしたが、サンライズ瀬戸に揺られて昇る朝日とともに高松入りし、沈む夕日を眺めながらフェリーで神戸まで戻るという何とも印象深い旅でした。