原作と映像作品(和田章郎)

 政治的なことを別にして、この夏に日本で最も話題になったことのひとつが“東京五輪エンブレム問題”だったのではないでしょうか。

 この問題。様々な既得権益を有した巨大組織のつながり方が、一般国民には著しく見えにくい形になっている、というような、深い闇の部分も感じさせる事例だったように思います。
 ちょっと理解できないところでいろいろな機関が動いて、決まっている…。知らないのは我々だけ、みたいな。
 考え過ぎると暗澹たる気持ちになってしまいますが。

 また、新聞とか週刊誌を発行することに携わる身としては、オリジナルと贋作、或いは似た表現とパクリ、とか、そこから更に著作権の捉え方、なども改めて考えさせられることになりました。
 現代社会では、著作権の概念そのものに変化が生じているわけで、肖像権なんていう比較的新しくできた概念ですら、いい加減になってきていますから、そりゃあ「コピペの何が悪いの?」という意識になっても、成り行き的に自然かもしれません。

 どこか…絶対にどこかズレているとは思いますが…。

 ところで、上記のエンブレム問題とは直接的な因果関係はないのですが、オリジナルとそこから派生した作品、という点で連想するのが、原作と映像作品の関係性。今回はそのあたりの私見を(競馬と無縁の話で恐縮ですが)。

 “読んでから観るか、観てから読むか”
 このコピーは、かつて全盛を誇った角川映画の宣伝で使われたもの。勿論、原作を書籍として発行している角川書店とのコラボレーション企画なわけですが、たくさんの人が、一度は考えたことのある“問い”なのではないでしょうか。
 私自身もチラッと考えたことがありました。なぜチラッとだったかというと、比較することにあまり意味を感じられなくなったからです。

 音楽や絵画に限らず、芸術作品の場合だと、文学作品や詩などにインスピレーションを得て創作された作品が多くありますが、オリジナルと比較してどちらがどう、という議論はあまり聞きません。むしろ真剣に比較した挙句に「オリジナルの方が優れている」という話になったら、正直、驚かされてしまいます。
 詳しくはないのですが、ストレートなタイトルなので一例として挙げますと、リストのピアノ曲に『ダンテを読んで』という作品があります。
 これは文字通り、ダンテの『神曲』を読んでインスピレーションを得て楽曲にした作品なんだそうですが、この曲を聴いて、「いやあ地獄編で描かれた世界観はまったく表現できていないよ」といったような評論があるとすれば、いや、あるのかもしれませんが、ともかく「それとこれは違うんじゃない?」という反論をしたくなりませんか。

 では何故、文学作品と映像作品の場合、比較されてしまうのか。それは映像作品が物語を軸にした作品から着想を得やすい、ということ。そして映像化する際に、“脚本”という文字媒体が介在するから、でしょうか。

 しかし、です。やっぱり別のモノと捉えて、それぞれを別の視点で評価するべきではないか、と考えます。

 映画を観て感動し、作品の時代背景、社会風俗をより理解するために、改めて原作を読む、という順序になることはあるでしょう。でも、その後で映像作品と比較して優劣を云々することに、どこまで意味があるのでしょう。
 また逆に、「原作を先に読んだけど、その世界観をまるで映像化できていない」という意見はよく目にしますが、見えてない部分を想像させる文学作品と、観せること自体が目的になっているのが映像作品ですから、原作の世界観と映像の世界観が違うのは無理もないこと。それこそ、むしろ議論すること自体の意味を疑ってしまいます。

 いやそもそもが、ネット上の映画のレビューなどで「原作を読みましたが」とか、「原作は未読」というコメントをよく見ますが、この前文、映画評を書く際に、何故必要なのでしょうか。
 もしかすると、わざわざ「原作を読んだけど」の前置きをしておいて映像作品について語るというのは、“文学作品の方が映像作品よりも上”というような思想か何かが奥底にあるのかな、とか、或いは本を読む行為そのものの高尚さを強調したかったりするのかな?などと邪推したりして…。
 いやまあ、この邪推こそ無意味、無駄でした。

 私個人の意見ですが、例えば「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラはヴィヴィアン・リーしかイメージできませんし、「ハリーポッター」のハーマイオニー・グレンジャーはエマ・ワトソンしか浮かんできません。それほど映像が与えるインパクトは強く、一方で想像で補うべき部分が少なくなってしまいます。
 その差、というか溝が、文学作品と映像作品を分ける決定的な要素なのではないか、と思うのです。
 原作が読者に求める想像の世界を、そっくりそのまま映像作品に込めることは不可能です。10人の読者がいれば、物語は10通りになってしまうでしょうから。だからこそ映像作品では、原作の一部分を切り取って、その部分を強調することで作品全体のイメージ化が行われる。
 つまり、別物、ではないですか?

 要するに、原作は原作で、他の文学作品と比較してどうか。映画は映画で、他の映像作品と比較してどうなのか、という議論こそ意味があるのではないか、と思うわけです。

 もしも「原作からイメージされるスカーレット・オハラを演じるのは、ヴィヴィアン・リーではダメだ!」という意見があるとして、では誰がいいんでしょうか?といった議論は意味がないことではありませんから、議論そのものを全面否定するつもりもないのですが…。

 毎度取り止めのない話題で失礼していますが、今回は五輪エンブレム問題からちょっと脱線し過ぎました。申し訳ございませんでした。

美浦編集局 和田章郎

和田章郎(編集担当)
昭和36年8月2日生 福岡県出身 AB型
1986年入社。編集部勤務ながら現場優先、実践主義。競馬こそ究極のエンターテインメントと捉え、他の文化、スポーツ全般にも造詣を深めずして真に競馬を理解することはできない、がモットー。そしてここにきて、他のスポーツの本質を理解することができないようでは、競馬の本質にはといてい辿り着かない、というように思うようになってきた。あくまで、学びの連続です。