5年前だったか、6年前のものだったか、ホームビデオで撮った自分の映像を見せられて、一瞬、固まってしまった。
 毎朝、洗面所で自分の姿は確認しているはずなのに、その姿とは大分違うように映っている。

 当時から大分、老けているのは間違いない。しかし、それだけじゃない。
 何だか全体に緩いというのか、だらしがないというのか。鏡の前とはちょっと印象が違う。人前ではこんな感じにふるまっているのか……。
 ホームビデオに映されることに慣れていない世代であることはあるのかもしれないけれど、それだけに余計、素のままの姿が見られている気がしていたたまれなくなった。

 自分自身のことを客観的に見ることが大事なのではないかとずっと感じていた。心の中でそう思ってみたり、実際に口にもしていたのに、少し前の自分の姿を見ただけでたじろいでしまうのだから情けない。

 そう考えると己を知らずに人を罵ったり、随分ひどいことを言ってきたような気がする。
 ある程度は自分自身を律することができているという思いがあったからこそ、それが許されているのだろうと思っていた。
 しかし、今となっては思いもよらぬことで人を傷つけていたり、いやな思いをさせていた可能性が高くなってきた。
 よくもここまで無事に飲んだり食ったりして、べらべらとしゃべりたてながら、何事もなく過ごせてこれたものだと思う。

 ひとえに、こんな自分を受け入れてくれた友人たちの心の広さのおかげ。
 心の底から感謝して、生き方、考え方を変えなければならないのか。

 しかし、もう人生の折り返し地点もかなり過ぎてしまった。
 甘えた考えかもしれないけれど、そんな自分を許してくれている人たちがいたからこそいい関係が築けているのだろう。
 だらしなくしているから、きついことを言っても許されてきた部分もあるのかもしれない。
 つまり、人間同士の付き合いは、許せるか許せないかに集約されるのかもしれない。

 いずれにしても、この年になってからショックを受けて塞ぎこんで、引き籠っても仕方がない。受け入れてくれない人がいても仕方がないと思うようにするしかないか。

 そもそも、塞ぎこまなくても、明日からは再び、引き籠らなければならない生活が始まる。
 競馬も再び無観客になる。わずかな拍手もなくなり、我々、報道関係者の行動も更に制限されることになりそうだ。

 そうなると先ほどの問題をじっくり家で考える時間も増えそう。
 どこまで人を許容できるか。個人的な問題だけではなく、大勢の人が生きる社会問題の根っこの話になるのかもしれない。

 特に今の隔離生活ではこの許容が大きな鍵になりそうだ。
 夜の街に遊びに出ることが極悪非道になり、旅行に行くなど言語道断。
 大声で話していると大勢の人に睨まれて、咳でもしようものなら周りから人がいなくなりかねない。

 そんな反応も致し方ないとは思うが、2年前までは誰も気にしない行動が悪になってしまっている。
 自分自身も若い学生が集団で楽しそうに談笑しているとついつい距離を取って、ちらちら睨んでけん制したりしている。
 そんな自分の行動も厳しい人から見たらコロナ対策がまったくなってないと思われるだろう。

 それならば、自分も今少し許容範囲を広げて、世の中の緊張感が少しでも和らぐ方に考えた方がいいのかもしれない。

 大事なのはコロナにかからないことで、人を監視することではない。
 こんな時だからこそ、気持ちだけでも楽しく保っていたい。

 今は引き籠って自分自身の行動を見直すいいタイミングなのかな。
 残りさほど長くない人生を楽しむために、貴重な時間でじっくり考えてみるか。

 そして春には、大勢のお客さんとともに、クラシックシーズンを謳歌できるように、競馬もしっかり見て考えます。
 皆様も1、2月は新聞に週刊誌。そして競馬ブックwebを駆使して、ダービー馬をしっかり見つけてください。

美浦編集局 吉田幹太

吉田幹太(調教担当)
昭和45年12月30日生 宮城県出身 A型
道営から栗東勤務を経て、平成5年に美浦編集部へ転属。現在は南馬場の調教班として採時を担当、グリーンチャンネルパドック解説でお馴染み。道営のトラックマンの経験を持つスタッフは、専門紙業界全体を見渡しても現在では希少。JRA全競馬場はもとより、国内の競輪場、競艇場、オートレース場の多くを踏破。のみならずアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、イギリス、マレーシア、香港などの競馬場を渡り歩く、案外(?)国際派である。