寅さんが「それを言っちゃあ、おしまいよ」とよく言っていたな~と思い出す。
今の世の中、本音をぽろっとしゃべっただけで本当におしまいになってしまう。
お互いに気を遣うことが必ずしも悪い訳ではないけれど、今は程度が行き過ぎのような気がしてならない。そして、いったい、誰が前よりいい気分で、気持ちよく生活できているのだろうか。
考えて発言するのは仕方ないのだろうが、本音が隠されていることは果たしていいことなのだろうか。
発言の中身より、うわべの言葉だけが独り歩きして、攻撃の対象になる。周りが攻撃しているのだから、一緒になって攻撃する。
そうこうしている内に、自分の考え方自体が雰囲気に流されて変わったりはしていないだろうか。いつの間にか本当にどう考えていたのかを忘れてしまう。これが一番怖いような気がする。
屈しないと思っていても同調圧力の強さに負けてしまう時もある。
そうなると、本当にどう思っていたのか、自分で自分の頭の中を塗り替えてしまっているようなことがたまにある。翌々思い出してみたら、最初は違うように解釈していたような気がしたりして、ぞっとするようなことも。
この状態に気がつけるのは競馬のおかげかも知れない。
競馬の場合は同調していい思いができることはあまりないのではないか。むしろ、同調を避けつつ、馬券を買うことこそがいい配当にたどり着くことができる。
反面、普通に考えれば当然、取れる馬券を取れないもどかしさ、疎外感はある。
楽しくレースを振り返ることも数としては少なくなる。
最終レースならば、確定して、配当を待つ人たちの横を抜けて、競馬場をそそくさとあとにする。これはちょっと寂しい。
それでも資金の乏しい自分の場合は、人が買わない馬を狙いすまして当てることしか生きるすべがない。
馬券の場合、純粋に同調とは言えないけれど、しかし、これが予想となると……
大抵の人がつけるべき馬に印をつけないこと。この重圧はお客さんが思う以上かも。
印をつけずに完勝された時など、いい恥さらしのような気分にさらされる。
周りの人はどうとも感じていないのかもしれないのに、皆に笑われているような気分になる。実際に何を言われても仕方がない。自分の判断に責任が伴うものだと身をもって知る。いい人生経験を毎週、受けているようなもなのかも。
急に無印にした馬を勝つと思っていたなどとは言えないのだから、嫌でもレース前の自分の考え方を思い出して、反省して訂正しなければならない。
この作業が世の中を見るときにいくらかは役に立っているのではないか。
昔、子供の頃は、みんながだいたい同じテレビを見て、同じ情報を共有していた。
その時代ならともかく、今はいろんな情報が飛び交う世の中なのに、一度、同じ方向に意見が集中すると一気に同じ意見になびいてしまう。
そこに疑いと怪しさを感じられるのは日々の鍛錬の成果なのかもしれない。
何にせよ、眉をしかめたくなるようなことでも、もう少し発言させて、批判しながらもどこかで許容する。そんな世の中の方がいいような気がするのだけれど……
寅さんの場合はその場は一旦、家族と決別して、旅に出る。それでも時間が経って、季節も変わればいずれは柴又にふらっと帰ってくる。
それを受け入れられる世の中の方が、お互いに楽しく、生きて行けるような気がするのだけれど。
本当に、雰囲気の悪くなっている今の世の中では一筋縄ではいかないか。
それでも、せめて、競馬場だけは、偏屈でとっつきにくい、あぶれものが戻ってこれるような場所であってほしいな。
美浦編集局 吉田 幹太
昭和45年12月30日生 宮城県出身 A型
道営から栗東勤務を経て、平成5年に美浦編集部へ転属。現在は南馬場の調教班として採時を担当、グリーンチャンネルパドック解説でお馴染み。道営のトラックマンの経験を持つスタッフは、専門紙業界全体を見渡しても現在では希少。JRA全競馬場はもとより、国内の競輪場、競艇場、オートレース場の多くを踏破。のみならずアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、イギリス、マレーシア、香港などの競馬場を渡り歩く、案外(?)国際派である。