トラックマンの週半ばの仕事のルーティンはある程度決まっている。私のような時計班の場合だと、朝はトレセンへ出かけて各馬の追い切りをチェック、午後は事務所に戻って担当レースの攻め解説を書く。攻め解説とは当日版の調教欄の時計の下にある1~3行ほどの文章のことで、競馬ブックでは先月から全レースに記載されることになった。
その日もいつものように攻め解説を書いていた。こんな風に。
「格上馬と併せ馬を行い、鋭さ満点の伸びで追走先着。好気配」
その時、今まで当たり前のように使っていた表現が、ふと引っ掛かった。
「気配ってなんだ」
意味の知らない単語を使っていたつもりはない。ただ、ぼんやりとした感覚をはっきりと形作るような、分かりやすい言葉が他に見つからなかっただけだ。いつもは気にも留めていなかったのに、一度心の中で気になり出すと、あとは頭の中がグルグルと回るだけ。あぁ、気づかなければ今頃もう10頭分くらいは仕事が進んでいたのに……。早くつかえを取るために、辞書で調べることにした。
「気配……はっきりとは感じられないが、漠然と感じられる様子」
解決どころか謎が深まってしまった。
では、普段使うとしたらどういう場面だろうか。
「全然雨が止む気配がないなぁ」「暗い部屋で一人でいたらお化けの気配を感じたよ」「なんだ、唐島君居たのか、気配がないから気づかなかったよ」
何とかく手がかりは掴めたような気がする。日常的な気配は「ある」か「ない」か。でも競馬で使う時の気配は「いい」か「悪い」かだ。もしかしたら、普段使う「気配」と競馬で使う「気配」は言葉は一緒でもニュアンスは違うのかもしれない。JRAのホームページにアクセスして、競馬用語辞典でもう一度調べた。
「気配……馬の動き、仕上がり度合や、気合いが入っているかどうかなどが漠然と感じられる様子」
なるほど、各々の項目を総合的に判断した時に「いい」のか「悪い」のかを表す言葉が気配なのか。う~ん。これが正解なのは間違いないのだけれど、まだ気持ちが晴れ晴れとしない。もう少しビシッとした説明ができないだろうか。でも早く原稿を書かなければ仕事が終わらない。時間がある時にまたじっくり考えることにして、一旦、このことは端に置いておこう。こうしてまたいつもの作業に戻った。
その週末はちょうどラジオのパドック解説の担当があった。いつものように馬の周回の様子を見ながら1頭ずつコメントする。
「落ち着きがありますし、馬体の張りもいいですね。好気配です」
あぁ、またやってしまった。自分で納得のいっていない言葉を持ち出して、聴いている人を煙に巻いてしまった。このままではいけない。なぜこの馬の気配がいいと感じたのだろう。グッとその瞬間のことを思い出し、ほんの少しだけ閃くことがあった。
「あの馬は他と比べて、堂々と歩いていたような気がする」
そうでない馬はイレ込んでいたり、ソワソワしていたり、毛ヅヤが悪かったり……。
これを人間に置き換えるとしたらどうだろうか。そこまで考えて、ようやく自分なりにひとつの答えが出た。
「気配がいい」とはその馬が「自分に対して自信を持っている状態」のことを意味するのではないだろうか。
人間だって同じだ。自信のある人は無駄なことはせず、常にドンと構えている。逆に自信のない人は余計なことをしてしまったり、自分を過剰に大きく見せつけようとしてしまったりする。馬も人も集団動物であるからこそ、社会の中でのポジションや格付けにはとても敏感だ。
人間で言えば学校なんかが分かりやすい。クラスメイトと出会った瞬間、「この人には敵わない」とか「コイツは自分より下だ」とかを直感的に判断して、「スクールカースト」みたいなものが自然とできてくる。誰もが無意識にでも経験してきたことだと思う。
もしかしたら、これと同じようなことがパドックでも起きているのではないだろうか。「今日はやけに調子がいいぞ」とか「アイツこの前強かったな」などのいろいろな感情が歩いている際の仕草や肌艶に表れていて、私たちは子供のころから培ってきた感覚を使い、気配という言葉で序列をつけているのかもしれない。
何が自信に繋がっているのかは馬によって違うだろう。「連勝している」「追い切りで先輩に先着することができた」「放牧先で彼女ができた」「ターフィー通販クラブでぬいぐるみができた」などなど。
勿論、感じ取った気配が必ずしも着順に直結するわけではない。ただ、たとえ100%馬の気持ちが分からなくても、馬の気持ちに寄り添う努力をすれば、少しくらいはいい結果につながるのではないだろうか。
今年の菊花賞は春のクラシックホースが不在。言ってみればクラスを牛耳っていたヤンキー、パリピがいない状況だ。夏休みの期間を経て自信をつけた「元陰キャ」の大変身もあるはず。今も昔も全然変わることができない自分を笑いつつ、でも精一杯励ましながら、若駒たちの晴れ舞台を楽しみにしようと思う。
美浦編集局 唐島有輝
1993年7月11日生まれ。2017年入社。美浦調教取材班。南Wコースを担当。好きなレースは天皇賞(春)と菊花賞。理由はレース中の駆け引きが面白いから。折角だから菊花賞を題材にしたコラムを書こうと思っていたのだが、うまく着地できそうになかったのでヤメた。好きな食べ物はクリームコロッケ。