「もしもし、ぼんてん丸さんのお宅ですか?」……。
 普通に考えると、少々怪しげなその電話。しかし、我が家の猫の名前を知っているのですから、懇意にしている人からの電話に違いはありません。「ん?」と考えていると、そんなこちらの逡巡を見透かしたかのように、笑いながら「米山です」と……。そう、声の主は昨年まで競馬ブックのカメラマンだった米山邦雄さんでした。

 カメラマン・米山邦雄さんの〝主戦場〟は開催日の競馬場。一方、私は通常、美浦事務所内で一切の仕事が完結する立場。接点はそう多くなかったのですが、それでも、自分が入社した当時(もう30年近く前)から何かと声をかけてもらったり、日高への取材にも何度か同行していただいた間柄。それにもかかわらず、私の方からきちんと挨拶もできないまま、フェードアウトするかのように(本人曰く)会社を去られた米山さん。だからこそ、「ぼんてん丸を写真のモデルに」との要請は私にとっても本当に嬉しいできごとであり、勿論、「うちの猫で良ければ」と二つ返事でOKしたのでした。

 撮影日の7月某日。念入りにブラッシングしたぼんてん丸とともに茨城の自宅で待機していると、定刻通りに米山さんが到着。普段は来客があるとそそくさと2階に逃げてしまう、そんな人見知りの激しい猫だけに、撮影には多少の不安もありました。ところが、百戦錬磨の米山さんにかかるといともたやすく懐柔されて、新入りの子猫〝めご〟とともに、無事、モデルを務め上げたのでありました。

 そういえば、いつもこんな感じだったなあ……。そんな思いで撮影の様子をみていた私。そう、同行をお願いした取材現場でも、米山さんはふと気がつくと取材相手の傍らにいて、初対面の人にもまるで旧知の間柄のように、ひと言ふた言、親しげに声をかける。それがあまりにも自然なので、取材相手の肩から力が抜ける、そして、何ともいえない穏やかな笑顔をレンズに向けてくれる……。競馬ブック所属だった当時、メインの被写体は勿論、競走馬だったのでしょうが、米山さんが最も得意とする分野は実は人物、それも〝人の笑顔〟ではないのだろうか。取材から戻り、美浦の事務所で出来上がってきた写真を眺めながら、つくづくそう思ったものでした。

 そして思い出されたのが、夏の日高でのあるできごと。それは競馬ブームがまさにピークを迎えた頃、現役引退したばかりのある活躍馬の取材のために、日高の牧場を訪れた時の話です。連日、ひっきりなしに訪れる見学者の対応に、おそらく、牧場の方々も疲労が重なっていたのでしょう。とにかく多忙とのことで、取材で訪れた私たちも満足できるような写真を撮ることが叶わず、結局、後ろ髪を引かれる思いで一度は牧場を後にしたのでした。
 はたして、あれで良かったのだろうか? その日の宿に戻っても何かスッキリとしない気持ちでいると、しばらくして、「もう1回撮りに行こうよ」そう言って背中を押してくれたのが、ほかでもない米山さんだったのです。中途半端な写真は載せられない。勿論、それはプロのカメラマンという立場での思いだったのでしょう。ただ、カメラマンとしてだけでなく、社会人の大先輩として、中途半端な仕事で妥協しかけた後輩への叱咤。それを米山さん流に伝えてくれたのだと、あれから四半世紀を過ぎた今でもそう思っています。

  ←この数日後に突然姿を消してまったぼんてん丸(米山さん撮影)

↓米山さんが以前に発表された写真集『ねころび』

美浦編集局 宇土秀顕

宇土秀顕(編集担当) 
 昭和37年10月16日生、東京都出身、茨城県稲敷市在住、A型。昭和61年入社。裏方業務が中心なので、週刊誌や当日版紙面に登場することは少ない。『リレーコラム』から『週刊トレセン通信』となり、内勤編集員という立場で執筆者に残ることは肩身が狭いが、競馬の世界、馬の世界の面白さを伝える、そんなコラムが書けたらと考えている。趣味は山歩き、芝生の手入れ、メダカの世話など。
 さて、予想以上に撮影に協力的だったぼんてん丸。第2回の撮影の話も出ていたのですが、それから数日後のある夜、いつものようにフラッと散歩に出たまま姿を消して、二度と私達の元へ帰ってくることはありませんでした。今年で15歳。悲しい話ですが、猫の習性を知る人の多くが想像する理由なのかもしれません。