夏競馬が始まる少し前に実家の母が入院した。

 それまですこぶる元気だった母にはかかりつけの医者が居なかった。

 大昔に通っていた市立病院しか診察券がない。予約のない新患は大抵、断られるのが今の大型病院。それでも他に行く当てはなく、小さな病院では少し不安もあったので思い切って行くことにした。

 案の定、最初は断られて他を紹介されそうになったのだが、あまりにもぐったりしていた母の様子を見て急患扱いで診てもらえることに。

 それまでの母の様子を時系列で伝えて、自分は今朝、東京から急遽、里帰りして連れてきたことを病院側にしっかりと伝えて診察室の前で待つ。

 しばらくすると事務員の方に携帯の番号を聞かれて、車の中で待っていて欲しいとお願いされて病院の外へ出されてしまった。

 この時に初めて、今がコロナ禍で東京から来た自分が非常に扱い辛い存在であることに気がつかされた。

 その後、入院している3週間、中に入れたのは退院した時だけだった。

 もっとも市内に住む家族でも、病室に入ることは許されず、荷物を預けることしかできない。

 この時点で東京都は“まん防”の最中。実家のある街はすべての宣言が解除されていた。

 入院中、電話で話すことはできたが、本人の顔を見ることもできず、当然、手を握って励ますこともできない。

 もしこれがコロナに限らず、命を落とすほどの病気だったら、入院した後は顔を見ることもなくお別れになってしまうのか。そう考えるとぞっとしてきた。

 よくよく考えればコロナ禍が始まった時から報道されて分かっていたことなのだけれど、自分に置き換えて考えることはしなかった。

 それが、現実に目の前に突きつけられた。

 東京都では4回目の緊急事態宣言が発令されて、またもや酒の提供が禁止されている。更にここまで延ばし延ばしにしていた東京オリンピックの観客動員を、ついに無観客にすることも決まった。

 これらのことだけでも落胆したり、気の滅入ってしまう話なのだけれど、それ以上に、家族や友人との最後の大事な時間がもう1年以上も失われていたと思うと胸が苦しくなる。

 母の具合が悪くなっていなかったら、おそらく、気がつかなかっただろう。

 自分の思慮の浅さをまたもや痛感した出来事ではあったが、相手の立場を思いやることがいかに難しいかもあらためて感じさせられた一件ではあったか。

 行政の人たちの大変さは想像に絶するのかもしれないけれど、少し発言がとげとげしくなっているのは非常に気になる。

 今こそ、上に立つ人には立派な姿を見せて欲しい。

 この1カ月、自分もため息ばかりしているような気がする。本来なら楽しみでしょうがないはずのオリンピックも、もうひとつ興奮するものがない。

 おそらく、当事者の選手たちはもっとがっかりしているのだろう。せっかくの地元開催。一番、つらい思いをしているのは彼らかもしれない。

 そもそもチケットを持っていなかった自分にとっては、状況は一切変わっていないのだから、興奮するもしないもないのだけれど……。

 皆さん、オリンピック最中も競馬は続きます。まずはステイホーム、そして平日と土日の夜に重点的に楽しんで、週末の日中は新潟と函館の競馬に興奮してください。

美浦編集局 吉田幹太

吉田幹太(調教担当)
昭和45年12月30日生 宮城県出身 A型
道営から栗東勤務を経て、平成5年に美浦編集部へ転属。現在は南馬場の調教班として採時を担当、グリーンチャンネルパドック解説でお馴染み。道営のトラックマンの経験を持つスタッフは、専門紙業界全体を見渡しても現在では希少。JRA全競馬場はもとより、国内の競輪場、競艇場、オートレース場の多くを踏破。のみならずアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、イギリス、マレーシア、香港などの競馬場を渡り歩く、案外(?)国際派である。