実に個人的な話になりますが、昨年の9月頃から、昭和と平成を中心に、もっと昔の話までも、ああだこうだと考えたり、先達の皆さんに教えを乞うたり、といった生活を送ってきました。それはとても充実した日々で、当然、このたびの改元関連にも気持ちは向いていたわけですが、いよいよ令和がスタートしました。
 元号が変わったからと言って、個人的に何がどう変わるのかはわからないですが、祝祭ムードでおかしな盛り上がり方をするのは論外としても、冷静さを保ちながら起きていることを見る目は必要なのかな、とは思います。
 そもそもが、元号って歴史を俯瞰する際に、一定期間を区切って〝~時代〟というタイトルをつけ、分析するための、そうですね、〝方便(分類の仕方)〟なのだ、とする仮説を立てて、突き放して考えるようにすれば、それなりに意味を持ってくるでしょう。
 もちろん、時の為政者の思惑が絡む、という側面も理解しておいて、ですが。

 そんなようなことを言うと、4月1日に発表になった〝令和〟の名称。
 当初は「もうひとつ馴染まない」「ピンと来ない」との声が多く聞かれましたが、〝平成〟だってスタートした時は同じようなことが言われていたように記憶しています。どちらかと言えば自分もそうでしたから。
 自分もそうでした、と言えば、〝令和〟に今ひとつ馴染まないことも、でしょうか。ただ、馴染む馴染まないの問題ではななく、なんだかなあ、という感じ。
 命令の〝令〟ってのがね、という意見はいろんなところで聞きますが、自分の場合、そこから一歩踏み込んでしまって、「命令があって、それに従うことよって〝和〟が成立する」といったニュアンスを感じてしまうから、でしょうか。
 もっとも、これはまあ為政者の思惑云々とは無関係で、個人的な受け取り方に過ぎないのだろう、とは思いますけど。

 閑話休題。
 元号が歴史を俯瞰する際の方便(分類の仕方)だと考えることが可能なら、〝令和〟がどんな時代になるのかを、想像したり予想してみるのも許されるはず。
 どんなふうになると思われますか?
 昭和64年当時、30年後がこんな具合になっている、とは思ってなかった自分が、あれこれ言うのもどうかと思います。ただ、当時よりは年齢を重ねてますんで、慎重(?)に話を進めることはできるのかな、と。

 そう、慎重にならなくてはいけないのは科学技術的なこと。完全に専門外どころか、科学分野はトンチンカン、ですので。昭和64年当時、インターネットなんてものが登場するとは思いもしなかったですもん。

 その頃は、「本当の知恵者というのは、物事をどれだけ知っているか、ではなく、何かを知りたい時、どこに当たってみればいいのかを知っている人」と定義していたところがありました。勿論、本質的な部分では今もそうだと思っていますが、表層的な部分で済ますとすると、上の定義を用いるなら、今や小学生の低学年ですら、何パーセントかが〝知恵者〟に属することになるかもしれません(子供ではないその手の人々がエセ知恵者かどうかはさておいて)。
 それが教育的なこと、価値観の有り様、更には社会的な問題にまで影響を与えたことは今更言うまでもありません。

 で、令和の科学技術的なこと(慎重に慎重に)。
 現段階で漠然と、でも、大筋そうなっていくのだろうと思われてるのは、〝AI〟の人間社会への関与がより大きくなるのだろう、ってことですか。でも、正直、具体的にどの程度になるかは想像つきません。
 というより積極的に考えたくないのかな?

 我が事で言いますと-。
 すでに競馬の予想は優れたソフトができあがっているようですし、それらがより洗練されていくのは間違いないでしょう。そして、その情報を発信する分野にAIが進出してくると、記事を書く〝人〟はどうなっていくのか。
 ワンパターンの紋切型の表現なら「お手のモノ」的にやってのけるでしょうし、小難しい言葉を使った、ちょっと気の利いた表現も自由自在。また誰も傷つけることのないソフトな表現などは得意技、じゃないでしょうか。しかも、これらすべての情報の中身に間違いはナシ!なのです。

 なんてことまで考え出すと、身につまされまくって想像したくなくなるのもおわかりいただけますでしょ?

 予想ソフトの精度アップだけでも脅威ですが、それをどう伝えるか、までAIがやり出したら、脅威どころの話じゃなくなります。〝人〟が最小限で済むように、いや、究極、必要なくなるのかもしれません。
 この現象は私ども専門紙業界に限った話ではなく、あらゆるジャンルの仕事に当てはまることだと思います。機械による支配?いかにもSF的ながら、フィクションではない時代が迫ってるってことでしょうか。

 では、SF的に話を進めると、機械に対して人間がどう対応するのか。
 失敗しない人がもてはやされるような風潮はなくなるでしょう。その点では機械には絶対に敵いませんから。では、より人間臭さが求められるのでしょうか。
 人間臭さ?
 根源的な部分での人間性を問う、みたいな、「哲学的な思索の時代になる」なんて予想は、それこそ時代遅れ?
 でも案外、そういう多面的な見方がより重要になってくるのかも?

 いやまあ、令和の時代になったら、そもそも〝SF的〟なんて言葉すら消えてなくなるかもしれません。

 昨年、亡くなったホーキング博士は、2050年頃に人類は火星に行く、というか、移住しなくてはならないようなことを発言してました。でないと人類は滅亡する、という前提だったかと思います。
 「火星に移住」ですよ。今の時代ではSF的ですが、2050年と言いますと31年後。31年というのは平成年間と同じ年月ですからね。本当に実現するなら、SF的も何もあったもんじゃありません。

 そのホーキング博士も「これからは〝人間らしさ〟がより必要になってくる」と言ってたように思いました。人間臭さ、と似てたり…しませんか?
 あ、いかん、これじゃ博士の請け売りみたいな結論になってしまう。

 令和最初の担当回も、相変わらずのグダグダっぷりで終わることになりました。
 やっぱり元号が変わったからって、そう簡単には変われないようで…。申し訳ございません。

美浦編集局 和田章郎

和田章郎(編集担当)
昭和36年8月2日生 福岡県出身 AB型
1986年入社。編集部勤務ながら現場優先、実践主義。競馬こそ究極のエンターテインメントと捉え、他の文化、スポーツ全般にも造詣を深めずして真に競馬を理解することはできない、がモットー。「令和」を楽しみにしています。