▼少々場違いですが……
  入社当初から「新聞・週刊誌の制作に裏方のスタッフとして携わるのが君の立場」といわれ、内勤一筋でやってきた自分。入社10年以上を経てから初めて予想欄に名前が出たのも、あくまでも美浦編集部の深刻な人員不足という事情があったためで、若手の加入により約10年続いたその“ピンチヒッター”も昨年一杯でお役御免となった次第です。そんなポジションにいる自分ですから、頑張ってみたところでそんなにたいしたものは書けません。競馬の核心に触れたり、本質を語るということは、この際、皆様にもお馴染みの他のスタッフに丸投げしてしまい、自分は緩めのコラムを書かせてもらいます。どうぞよろしく。
▼ヒカルイマイ3冠ならず
 さて、ずっと事務所の中にいるので、保存用の週刊誌の整理といった雑用もやっています。年齢と共にだんだん面倒になってきて、最近は山積み状態ですが、意を決してやり始めるとこれが結構面白く、整理そっちのけで読みふけってしまったり、社内の諸先輩方の“若かりし姿”に腹を抱えて笑ってしまったり……。
 で、自身最初となる今回は、美浦編集部にある最古の週刊誌を引っ張り出してみました。昭和46年7月10.11日号です、どうですか?これ。現在のものよりも身長が低く(タテ置きカラーボックスに収まる)全72ページ。そして、北海道版です。いまの週刊誌(A4サイズで200ページ前後の全国統一版)と比較すると、まさに隔世の感がありますね。
 
<表紙はダービー優勝のヒカルイマイ。
鞍上は田島良保現調教師>
 見てみると、まず値段が150円……安いです。そして、表紙に躍る特集のタイトルが「ヒカルイマイ3冠への道は険し」。この当時の場外の混雑振りを映像で目にした記憶がありますが(自分も映像でしか知らない)、それはもう民族大移動的な光景。馬券を買えずに、というより場外売り場にすら入れぬまま締め切りを迎えるファンも多数出るという空前の競馬ブームだったようです。そんな中、皐月賞とダービーを勝ち取ったヒカルイマイが、果たしてセントライト、シンザンに続く史上3頭目の3冠馬に輝くのか?血統不詳のサラ系で農家兼業の小さな牧場で生まれ育った生い立ちと共に、人々の注目を集めていたのです。しかし、ヒカルイマイは屈腱炎を発症して菊花賞を断念。4ページにわたる特集記事は、「道は険し」と題しながらもその険しい道を歩むヒカルイマイにエールを送る形で締め括られていますが、残念ながら再起は叶わず、ヒカルイマイはそのまま引退を余儀なくされました。
 一方、検討のトップは函館の巴賞。昔はこんな↓能力表でした。かなりコンパクトです。東京D2100メートルのレコードホルダーだったことで知られているゴールドライジンが有力だったようですが、いまとは違って予想欄がないためによくわかりません(笑)。ちなみに翌週の週刊誌を見ると、結果は①着グランドプロス、②着ゴールドライジン、③着タマミとなってました。


<レース名や着順よりも走破タイムが目立つ当時の能力表。桜花賞馬のタマミや繁殖で成功したサチカマダの名も見られます>

 また、驚いたのは馬主さんへのインタビュー「オーナーサロン」がこの当時からタイトルもそのままに乗っていること。自社の週刊誌ながらこんな長寿記事であるとも知らず恥ずかしい限り。※聞き手はまだ芦谷さんではなかったものと思われます。
 最後に、現在のニュースプラザに相当する「アンテナ」欄にはこんな記事も→なんと牧歌的な記事でありましょう。
 さて、最古の週刊誌、いかかだったでしょうか?この他にも、こちらの整理作業を妨げてくれる資料と読物が満載……なんですが、勿論もう売ってはいません。ごめんなさい。

美浦編集局 宇土秀顕