最初の回で大昔の週刊誌を引っ張り出してきたところ、読者の方から“またやってください”と、貴重なご意見ご要望を賜りました。ありがとうございます。そこで今回は美浦トレーニングセンターか開場された昭和53年の春(3月11.12日号)に遡ってみます。

▼赤マルの中の美浦
 この表紙は東の金杯のスタート直後。非常に違和感がありますが、この頃は正月が東京開催(僅かな期間でしたが)、しかもこの年は降雪で金杯がダート変更されたため、こんな写真になっています。ハナを叩きに出ているのは伊藤正徳調教師騎乗のヨシノリュウジン(先頭の黒帽)。これを小島太現調教師のシマノカツハル(オレンジ帽)が交わして逃げ、そのまま押し切ったという一番です。中央付近には、この年の有馬記念馬カネミノブ(白いメンコ)も写っていますが分りますか? そして、「準備整った美浦トレセン」のタイトルが躍ります。  この号が発売された頃、自分は卒業を目前に控えた中学校3年生。そう考えると、もう恐ろしく昔のことですが、社会科の授業で使っていた地図帳で美浦という地名を探し出し、そこに赤マルをつけたことは昨日のことのように覚えています。霞ヶ浦が近い、筑波山もソコソコ近い、その他のことは正直よくわからない。そんな“赤丸”の中で、このコラムを書いている30数年後の自分の姿……。当時は想像できるわけもありません。

▼街が移動してきた!
 それはさておき、当時の週刊競馬ブックにはまだカラーページがありませんでした。したがって掲載されているトレセンの様子も残念ながらすべてモノクロ写真なのですが、その写真に付いている解説が“マンモス団地並みの厩務員住宅”。マンモス団地なる表現に時代を感じてしまいます。  さて、その美浦トレセン。ざっと歴史を振り返ると、昭和43年に用地売買契約が締結、47年に着工、52年の末に完成。そして、栗東トレセンに遅れること9年、この昭和53年の春に晴れて開場となりました。  ところで、トレセン設立の構想が具体化した当初、候補地とされていたのはが千葉県成田市の三里塚でした。しかし、その三里塚は新東京国際空港(成田空港)の建設が先に決定。これにより、トレセンの設立地は現在の美浦に変更されたという経緯があります。一方、その新東京国際空港ですが、計画段階で三里塚とともに有力な候補地に挙げられていたのが“霞ヶ浦南岸に広がる稲敷台地”。おそらく、この美浦周辺だったのではないでしょうか。そう思うと、新空港と美浦トレセンは不思議な縁で結びついているような気がしてきます。まあ、都心から比較的に近くて、なおかつ広大な土地が必要という共通項があるからでしょうが……。

 それはともかく、東京、中山の両競馬場、そして白井分場から茨城県の美浦へ。約5000人もの関係者の移動が、この年の3月初旬から丸1カ月かけて行われた訳です。ちなみに、トレセン開場前の美浦村の人口は約8000人。それが、ひと月余りで1.6倍に膨れ上がったことになります。特集記事には“新しい街の誕生”という小見出しが打たれていますが、まさに街がまるまる移動してきたという感覚だったのではないでしょうか。  右の写真はそれから30数年後の現在の風景(同じ棟が写っている訳ではありませんが……)。桜の時期には毎日の通勤でこんな風景が楽しめるのですが、今年は震災で美浦に避難されてきた方々を招待し、花見会が開催されたとのことです。

▼防雪林と青麦畑
 ところで、この号にはもうひとつ大きなニュースが伝えられていました。それがテンポイントの悲報です。当時、一般のニュースでもかなり大きく取り上げられたのですが、馬の骨折が命にかかわることをこの時に初めて知った人も少なくないでしょう。かくいう私もその一人でした。前年の有馬記念はまさに語り継がれる名勝負。宿敵トウショウボーイを退け、予定していた海外遠征へと弾みをつけたテンポイントでしたが、年明けの新春日経杯では雪の中、66.5という酷量でのレースとなり、4コーナーで骨折競走中止。その後、約40日にわたる闘病生活の末、3月5日に死亡したのでした。2ページにわたるこの記事、最初は何気なく目を通したのですが、関係者の深い悲しみがヒシヒシと伝わって、読んでいるうちにこちらの胸が痛くなるほどでした。  ところでテンポイントの記憶といえば、やはり「優駿」に掲載された故寺山修司さんによる有馬記念の観戦記。自分がそれを目にしたのは高校生になってからでしたが、トウショウボーイを防雪林、テンポイントを青麦畑と例え、トウショウボーイを祖国的な理性、テンポイントを望郷的な感情と例えたあのくだり。あれが、自分がこの世界に引きずり込まれていった大きなキッカケになったことは間違いありません。最後は他誌の話になってしまいましたが……。

美浦編集局 宇土秀顕