この10年くらい、インターネットの普及で世の中、すっかり変わった感じがします。単純に情報を入手するツールとして使う分にはいいですが、様々な可能性とともに使い勝手が多様化していったんでしょう。それによって、少なからず人心にまで影響を及ぼすことになったようです。
 何の検閲も受けない文章(当欄とて似たようなもんですが)がウェブ上を飛び交い、それによって“無責任”が当たり前になるわ、偉くなった気分で上から目線になるわ、簡単に入手した情報をオリジナルな発想であると信じて“後出しジャンケン”が横行するわ、匿名性をいいことに自作自演が蔓延するわ…。
 一方で、情報の発信経路に制約がないうえ、伝達スピードそのものは既存メディアより圧倒的に速いため、例えば巨大組織が蓋をしていた暗部を隠し切れなくなり、それこそ言論統制された一国の体制が代わってしまうような、劇的な事例まで起きています。
 一体何が本当で、何が嘘なのかを見極める力が、益々求められることになりました。
 いやまあ、インターネットの功罪を云々しようってわけじゃありません。要するに様々なジャンルにおいて、いろいろな意見が玉石混交、好き勝手に交わされるようになった、ということ。意見交換が、縛りがなくなって自由闊達になった、と。
 競馬においてもこの数年来、人気回復策が侃々諤々、様々なメディアで、それこそいろいろな立場の皆さんの意見が取り上げられてきました。馬券売上増の秘策(?)から入場者減阻止、それに関連して若者離れに歯止めをかける案、etc…。一部の例外を除けば、それぞれに興味深い内容で、感心させられることばかり。それはそうなのですが、その手のものを目にしていて、ちょっとだけ気になることもあるんです。
 提出された案について、当然たくさんの功の部分が語られます。ただ、その案が実現したとして、発信している当人がいかに楽しむのか、その具体的な姿が今ひとつイメージできないことが多い。そのことが残念でならないのです。
 対象が娯楽であれば何でもそうだと思うのですが、大人が目一杯遊んで、楽しそうにしているのを見ると、若者は自然に興味を持つものでしょう。例えば熱狂的な野球、サッカーファンを父親に持つと、子供はどんな感じになるでしょうか。もしも醒めた目で見る子がいても、成長してから「ウチの父親は○○が好きで」なんて会話になって、少なからず競技に触れることになるでしょう。
 そんなようなことを考えていて、思い至ったのです。競馬人気の下降、若者が目を向けない原因の最たるものは何か、と言えば、我々を含めた競馬ファンを名乗る大人が、現在の競馬を目一杯楽しめてないからではないのか、と。
 大所高所に立って不平不満を並べ、ここをこうしよう、そこはこうあるべき、なんて意見を羅列するだけでは、つまりは今の競馬の問題点を白日の下にさらして列記しているに過ぎません。そんなのばかり読まされて、知らない人に「競馬が面白い物」と感じてもらえるでしょうか。
 無論、いろんな案を捻り出して発信するという作業は無意味ではありません。重要なことであると思います。しかし、問題を提起して突き詰め、改善していこうというのなら、提案よりまず最初にやるべきことは、今の競馬が大人が楽しめる物として提供されているのかどうか、或いは、大人の鑑賞に堪えうる対象になっているのかを追求するべきでは、と思うわけです。
 だからこそ、将来を憂いて案を発信してくださる皆さんが、現在、どのように競馬を楽しんでおられるのかを知りたい。そこで生じる熱情を伝えて欲しい。競馬との向き合い方を教えて欲しい。メディア側の人間に限定で付け足すなら、できればファンの目線を意識して。ま、ファン目線に関してはややこしい部分もあるので別の機会に触れるやもしれませんが、とにかく、読み手としてストレートに興味があることではありますから。

 いやホント、大人が疲れ果てて、つまらなさそうにしていたら、若者はついて来ないんじゃないのかなあ。やっぱり大人が本気を出して楽しまないと。そりゃあ中には独自の楽しみ方を見つける若者もいるでしょうけど、先達が競馬から最初に享受したはずの熱情までは伝わりにくい。そうなると当然、後に続く競馬ファンの質も違ったものになっていくでしょう。インターネットが時代を変え、人心に影響を与えたように。そして競馬人気も形を変えることになる。
 仮に、そのことを憂うなら…。自戒を込めて書くのですが、発信する方法そのものを練り直す必要がある。これが真っ先に取り組むべきこと、では?

美浦編集局 和田章郎