競技者の発信力(和田章郎)

 史上最多、38個のメダルを獲得したロンドンオリンピック。それを記念して、JOCが初めてメダリストのパレードを実施し、銀座の沿道に50万人からのファンが詰めかけた、という報道がありました。
 「オリンピックが大好きなのは日本人くらい」なんて、だから何が言いたいのかよくわからない意見もあるようですが、それはともかく、それくらい盛り上がったことは間違いのないロンドンオリンピック。
 この盛り上がりに一役買ったのが、“選手達のコメント上手”という仮説が成り立たないでしょうか(ニュース番組の報じ方については、それはまた別問題として)。とにかくスマートで、聞き手の意図を汲んだかのようなコメントを並べてくれます。
 まあ正直なところ、「支えてくださった皆さんのおかげ」みたいなコメントを、判で押したように次から次に聞かされると、引き気味になる時もありますが、実際問題としてオリンピックに出るなんて、メダルを取れたか取れなかったかにかかわらず(これ大事)、周囲の支えなしには無理でしょうからね。本心であることには違いないと思います。
 要するに、用意していようと何だろうと、そのことを試合後のインタビュー、それも全世界に向けて発信されるような場でさりげなく言ってのける。そこに大きな意味があるのであって、これまでにはあまりなかった、爽やかな感動があったのではないか、なんてことを思いました。

 ただ昨今のアスリート達のインタビュー上手ということでは、感心すると同時に必然なのかな、と感じたりする部分もあります。三浦騎手がデビューした08年に弊社ブックログの方でチラッと触れて、そのままにしていた『10代のアスリート達』の話。その時に上げた10代のアスリート達は既に10代ではなくなっているので、最近の若いアスリート達、と括り直してもいいでしょう。
 代表的なところでゴルフの石川遼とか宮里藍とかプロ野球の斎藤佑樹とか。彼らのインタビューを見聞きして年配の評論家、有識者と呼ばれる皆さんはとても感心なさいます。が、彼らのインタビュー上手は、ある意味、当たり前のように身につけたスキルなんじゃないか、とも思えるのです。
 彼らが生まれた時分のことを想像してみてください。
 ひょっとすると彼らは、親の顔より先に、ビデオカメラのレンズの形を認識したかもしれない。それは冗談としても、家庭環境は色々かと思いますが、少なくともビデオカメラの前に出て、再生した自分の姿を見る回数は我々の世代よりも多いはず。三つ子の魂何とか。生まれながらにして、と言うと大袈裟ですが、カメラの前の自分を意識する感覚が相当早い時期から身につくことは容易に想像できます。そして成長していくに従って、自分がカメラの前でしゃべったことが見ている人達にどういう印象を与えるか、をごく自然に理解することになるでしょう。
 そういう子供達がアスリートとして注目されるようになった時。自分が発したメッセージが社会的にどういう影響を与えるか、をしっかりと認識していたとしても、何ら驚くことではないかもしれません。
 競技を終えた後のインタビューで、タレントさんやお笑い芸人さんのマネをしたり、ふざけてみたり、周囲を不愉快にするような受け答えをしないのは、彼らにしてみれば当たり前のこと。自分自身は勿論、競技に関わっている人々、ひいては競技そのものの印象すら悪くするのですから。

 ロンドンオリンピックに話を戻しますと、「“感動度”1位は卓球の福原愛選手」という産業能率大のアンケート調査結果が報じられました。
 今更解説は不要かと思いますが、卓球女子団体で史上初の銀メダル獲得。勿論、その偉業は多くの国民に感動を与えたし、当然、長く記憶されてしかるべきです。しかし、“感動度”1位になった要因は、その競技結果だけではなかったでしょう。
 彼女は、上に書いたアスリート達以上に、“子供の頃から注目されたアスリート”の代表的な存在です。実は『10代のアスリート達』のことを考えるようになったのも、彼女がキッカケでした。
 オリンピックに初めて出場したアテネで、期待されながら敗れた4回戦直後のインタビュー。記者、テレビカメラに囲まれて、
 「負けた直後のインタビューって、つらいものがありますね」みたいな前置きをしてから、しっかりと質問に応じたのです。
 結果が悪いと、露骨に不機嫌な、というか、まともに答えないプロのアスリートが少なからずいる中、当時15歳の高校生が取った態度です。
 「この子、一体いつからこういうしっかりした感覚を身につけたのだろうか…」と。

 おそらく多くの国民は、“卓球の愛ちゃん”を20年近く前から知ってました。テレビに登場したのは5歳くらいでしたから、ヨチヨチ歩きとは言いませんが、ベソをかきながら懸命にラケットを振る愛くるしい姿を見た人は少なくなかったはず。その当時から“あの子”を知っていて、中学、高校、そして現在と進むに連れ、ますます彼女のことを認識した人は増えていったでしょう。そのうえでの、“悲願”のメダル獲得でしたから。多くの人が、“他人事ではなく良く見知った選手”として、彼女の活躍に感情移入したのだと思います。
 「一人のアスリートの成長を見続けた」という、まあ一般の我々にとっては錯覚に過ぎないのですが、でも、そんなふうに感じたうえで、表彰式の直後に「支えてくださった皆さんのおかげ」なんて言われたら、ねえ。“感動度1位”、異論ありません。

 さて、この「一人のアスリートの成長を見続ける」行為。実は福原選手に限ったわけではありません。例えばフィギュアスケートの伊藤みどりさん。彼女の場合は福原選手のケースとよく似ていて、やっぱり5歳頃からテレビで紹介され、様々な紆余曲折を経てアルベールビル五輪で銀メダルを獲得。同じ色のメダルだったことまで一緒です。
 また、毎年のことになりますが、高校野球の甲子園大会に出場し、その後、プロ入りした球児達。彼らは例外なくその対象になります。もう引退しちゃいましたが清原、桑田のKKコンビにしたって、15~16歳頃から知ってるわけですからね。
 「子供の頃と全然顔が変わってないね」とか、KKコンビにしても愛ちゃんにしても、多かれ少なかれ話題にしたことありませんか?
 アスリートの成長を我が事のように見続けられる。これが後々の大きな人気につながっていく、という好例のように思えます。

 そんなようなことを考えながらの競馬。
 若駒がデビューして、いろいろな経験をして成長して、それをジッと見守るどころか、馬券を買って参加までできます。競馬人気の衰退が囁かれて久しい中、そのあたりに面白みを持っていかずしてどうするのか、という気もしますが、一年に何千頭もデビューする若駒に、走る前から多大な期待をかけて良いことって、あまりないのがこの世界。そこらあたりが難しいところ。改めて考察し直す必要はあるでしょう。
 まあマスメディアの過剰な報道が、若いアスリート達の進化や成長を妨げたりするのは人間も同じ。前述したアスリート達は、言ってみれば一握りのスーパーアスリート達ですもんね。
 人語を解さず(そのはず?)、物言わぬサラブレッドの場合は、メディアの影響を受けるのは、やっぱり取材される関係者の皆さんになりますか。無論、メディアの発信力に大きく関わるのも。

 いずれにしても、いかに競技を盛り上げるのか、という命題について、報じる側も報じられる側も、担っている責任を常に意識して行動しなくてはならない、そういうことでしょう。方法は様々ですが、一歩間違えれば、競技そのものが疑われることになりかねませんから。誰だって、関わっている競技を愛しているはず。だからこそ、その競技の発展を妨げるマネだけは避けないと。
 オリンピックに限らず、世界レベルの競技会は色んなことを教えてくれますが、今回のロンドン。個人的にはこれまでにもまして、だったように思います。羨ましさや憧れも含めて、日本人選手達の鮮やかなコメントが強く印象に残った、という意味で。

美浦編集局 和田章郎