やさしい剛腕逝く(和田章郎)

 手元に寺山修司の競馬ノンフィクションシリーズがあります。
 昭和50年代までに競馬を始めた世代のファンなら、一度は手にしたことがある作品群でしょう。もっと後年になって競馬ファンになった方でも、耳にしたことがあるのではないかと思われます。
 その中の一冊、『競馬への望郷』の中に〝騎手伝記〟と銘打った章があって、9人の騎手が取り上げられているのですが、その中の1人に、〝郷原洋行〟の名前があります。

 エッセイでありながら物語仕立て。場所は例によって新宿の酒場。そこでいつもの仲間との競馬談義が、やっぱりいつものように繰り広げられるのですが、話の流れの中で騎手の上手下手の話題になり、
 「郷原十番勝負」
 を選ぼうじゃないか、という話になります。
 そうして、少しずつ〝騎手郷原評〟から、〝人間郷原像〟を浮かび上がらせる…。

 50年近く経って、この手の読み物が競馬界にあまり出てこない現状というのはどうかと思いますが、それを嘆くのが今回の主題ではありません。勿論、ここで先達の筆力の物凄さを改めて紹介したり、解説しようというのでもありません。

 1月31日に元騎手で元調教師である郷原洋行さんが亡くなられました。私なりの思い出話をどんなふうに扱えばいいのか、と思い悩むうちに、ふと思い出した一冊でした。押入から引っ張り出して来て読み直すと、どこか新鮮な気分に浸された次第。個人のノスタルジーだの何だのの批判はうっちゃらせて(?)ください。

 騎手時代からのプロフィールを見れば、私が競馬を始めた昭和50年代後半というのは、全盛期を過ぎておられたのだと思われます。それでもつい数年前までの騎乗ぶりや逸話は競馬ブックの先輩達から聞かされましたし、そのうえでニッポーテイオーやウィナーズサークルなど、現役最晩年に近づいて尚、GⅠを立て続けに勝利する姿はレジェンドたる風格を感じたものでした

 「剛腕・郷原」の異名はよく知られています。「ゴーワンゴーハラ」は音もリズムもしっくりくる。モンテプリンスをねじ伏せた第47回日本ダービーのオペックホースを始め、リアルタイムで観た方では、これは心底応援していた第34回日経賞のチェスナットバレーのゴール前の迫力が印象深く、なるほど「剛腕」と呼ばれたのも理解できたもの。
 一方で、ニッポーテイオーはスマートな逃げ先行策が目立ちましたし、ウィナーズサークルもダービーではソツのないクリーンなレースぶり。つまり「剛腕」のイメージとは違ったクレバーな感じ、とでも言いますか。

 そんな色んなイメージが混ぜこぜになっている状況で、初めて長い時間、話を聞かせていただいたのは平成5年のこと。騎手を引退されたばかりで、まだ現役時代のギラついた勝負師の面影を残した頃。南馬場スタンド2階の調教師席でした。

 その年。週刊競馬ブック誌上で、関東の重賞レースに限った〝回顧読み物〟みたいなものを担当していて、要するに昔話…と言ってもこの時のケースは5年ほど前のレースでしたが、前述のニッポーテイオーの京王杯SCのことについて話を伺いました。
 そのレース、郷原騎手騎乗のニッポーテイオーは、ダイナアクトレスと直線激しく叩き合った末にアタマ差の2着。

 負けた馬のレースについて話を聞かれるのを嫌がる方もいらっしゃいますし、駆け出しの専門誌の編集員が、不躾にそのレースに焦点を当てることについてどう思われるか、みたいな不安を抱えながら、緊張しまくりの取材。ところが、調教がひと段落ついてから、2時間弱くらいでしょうか。ニッポーテイオーとの出会いから調教中の留意点、一戦毎のレースぶり、そして当該レースの詳細。更に騎手としてレースにどう向かうのか、といった、心構えというか信条のようなことまで、懇切丁寧に話してくださいました。
 何しろレジェンドで、しかも強面の印象がありましたから、意外なほどと言っては怒られますが、スムーズで中身の濃い取材に。要するに、〝剛腕〟から受けるイメージとはほど遠い人物像に感じられたのです。

 その後、ゆっくり話を伺うチャンスはなく、いい印象を抱いたまま長い年月が過ぎていき、師は平成23年に定年を待たずに引退。平成26年に騎手顕彰者となられ、その表彰式会場で挨拶したくらいだったのですが、一昨年の秋、今度は電話で、これまた長い時間、話を聞かせていただくことになりました。拙著の取材でした。
 電話の向こうから語られるエピソードの数々は、主役であるウィナーズサークルの話に限らず、鮮明な記憶に裏付けられた詳細なもの。その口ぶりも約四半世紀前とほとんど変わらないもので、今思い起こしても感嘆させられたとしか言いようがありません。

 平成5年の取材のことはさすがに覚えておいでではありませんでした。ただ、自分は当時(30を少し出たばかり)から昔話をダラダラと聞くのが好きで、テーマから外れた話もたくさん聞かせていただいたのですが、それでも聞き洩らしたことがあって、ちょっぴり心残りもありました。
 昭和60年に亡くなった中島啓之騎手との交友について、です。
 ダービーを親子二代で制した騎手というのは、現在まで3例あって、その第一号が中島時一、啓之親子でした。
 他界されたのが私の業界に入る前だったため、話す機会はなかったのですが、ファン当時から好印象を持っていた騎手の一人で、当時から郷原師との友好関係を新聞雑誌等で読んでいました。前述したチェスナットバレーに生前の中島騎手が騎乗していて、亡くなった後に手綱を引き継いだ郷原騎手が翌年の日経賞を勝つことになるわけですが、その際にもその手のエピソードがどこかの新聞に出ていたと記憶しています。
 「同期で、ウマが合ったというのかな。そうね、仲は良かったね。若い頃は毎晩のように競馬の話をしてた。技術論的なことで、お互いの乗り方について指摘しあったり、半分喧嘩みたいに言い争ったりもしたけど、そういう相手は彼だけだった。あんなに早くに死んじゃって…」

 そんな思いがあるからなのか、今の騎手の在り方についての話になると、ちょっと声のトーンが落ちて、
 「やっぱり寂しいよね」
 と言いつつ、
 「ただ、外国の騎手との差を考えると、騎乗馬の質やなんかではなくて、努力が足りないだけかもしれない。乗っている姿勢や、馬への支点の与え方とかね。見よう見マネでも何でもいいから、いいモノを取り入れて自分のモノにしていくようなことだね」
 と続けてくれました。
 こういう話になった時、レースの経験がないどころか、馬に乗ったことすらない人間にはちんぷんかんぷんになるのが、毎度のことながら情けない。こればかりは本当に「努力が足りないだけ」と痛切に思わされます。

 鹿児島から騎手になるべく上京した当日が、まさにご成婚のその日だった、という平成の天皇(現在の上皇陛下)との縁についても興味深く聞かせていただきましたが、拙著の引用みたいになるので控えておきます。
 ともかく、本が完成した際もお身体の具合が良くないとのことで、電話でのやりとりだったのですが、
 「いくらか役に立てたかい?それなら良かった」
 とおっしゃってくださって、心の底から恐縮するばかりでした。
 やはり自分には、ほんの僅かな接点に過ぎませんが、〝剛腕〟の猛々しさではなく、やさしく包み込んでくれるような印象しかない。
 そして亡くなられた今、神式の通夜祭に参列させていただいて、お礼を述べただけでは足りないなあと、自らのいたらなさを痛感しているところです。

 それにしても…。
 冒頭に触れた『競馬への望郷』の中の〝騎手伝記〟には、9人の騎手が登場する、と書きました。その内の7人は関東の騎手で、吉永正人騎手は亡くなった際に、小島太騎手、柴田政人騎手にはダービージョッキーとして特集ページに登場いただく際に、それぞれ週刊競馬ブック誌上で原稿を書かせていただきました。そして今回の郷原洋行さん…。

 「思えば遠くに来た」などと感慨にふけるにはいささか早すぎるぞ、と自らに言い聞かせたい。
 そんなようなことを思う令和2年の春の一日です。

美浦編集局 和田章郎

和田章郎(編集担当)
昭和36年8月2日生 福岡県出身 AB型
1986年入社。編集部勤務ながら現場優先、実践主義。競馬こそ究極のエンターテインメントと捉え、他の文化、スポーツ全般にも造詣を深めずして真に競馬を理解することはできない、がモットー。三枡を確保して楽しみにしていた大阪場所の無観客開催に意気消沈。いかにして気を取り直すか、目下真剣に画策中。