時代の変わり目(和田章郎)

 ご存じの通り平成31年はあと3カ月ほどで幕を閉じ、新しい元号の時代がスタートします。
 昭和61年入社の自分は、平成とともにどころか、まるまる平成年間を競馬ブックで過ごしたことになりますが、入社した当初はよもや三つの元号にわたって記者生活を送ることになるなどとは思っておらず、つくづく感慨深いものがあります。

 それにちなんだ感慨深い事柄、ということで言いますと、競馬カレンダーの2月はお別れと新しい出会いの季節。毎年、いろんな思いが去来するのですが、今年は個人的な感覚として、特別な年になります。

 関東で伊藤正徳師、栗田博憲師、柴田政人師、谷原義明師の4人、関西で沖芳夫師、坂口正則師、中村均師、松元茂樹師の4人の、計8人の調教師さんが、この2月28日で定年引退されます。
 この中のお二人、栗田博師と中村均師は若くして調教師になられていて、栗田博師が累年数で今年40年目、中村均師が同43年目。
 つまりお二人が引退することによって、自分が業界に入る前から調教師としてバリバリ働いておられた方が現場からほとんどいなくなる、ということになります。
 ごくごく個人的な、勝手な思い入れに過ぎませんが、平成が終わる年に、自分にとってもいよいよ本当に大きな時代の区切りがくるのだな、と感じざるを得ません。

 栗田博師については、平成22年に競馬ブックを退職された大先輩である関谷荘一氏の高校の同級生、ということで、入社して間もない頃からお世話になりました。
 まだ美浦トレセンができる前、昭和52年当時に白井でバッタリ関谷氏と再会し、お互い「どうしてこんなとこに?」と大喜びしたというエピソードに始まって、興味深い話もたくさん聞かせてもらいました。

 印象的だったのは、お若い時分、何しろダービーにかける思いの強さ、というのが日頃からひしひしと伝わってきたこと。
 2000年代に入って以降、やや低迷期に入っておとなしく(?)されていましたが、平成26年にイスラボニータで皐月賞を制し、1番人気でダービーに向かった際には、普段の様子、言動に久しぶりのピリピリ感が戻ったようで、こちらまで高揚したものでした。
 結果として、3/4差及ばず2着に終わりましたが、勝ったワンアンドオンリーの橋口師もまた、20度目のダービー挑戦による悲願達成。
 あのレースは、ダービーの唯一無二たる所以を改めて思い起こさせてくれたレースとして記憶に残っています。

 記憶に残ると言えば、今回引退される柴田政人師が騎手としての悲願を達成した平成5年の日本ダービーも忘れられないレースでした。その翌年の、騎手引退につながる直線での落馬シーンも衝撃的な記憶として残っていますが……。
 5年前の平成26年に、騎手顕彰者として表彰された際に、週刊競馬ブック誌上の特集ページ『東京優駿の記憶』の取材で初めて(当該週の取材は別にして)ゆっくり話させてもらいましたが、昔話を長い時間にわたって丁寧に話してくださり、感激したことを思い出します(これについては、先週のことでしたが、小島友実さんの取材に同行した際にも思ったことです)。

 それにしても……。
 今年が大きな区切りというのは別にして、ここ数年、先達が現場から離れていってることが実感としてあるのは、『東京優駿の記憶』のページに菅原泰夫騎手、小島太騎手と、立て続けに登場願って話を聞かせていただいたから。
 ただ、その都度思うのは、一線を退かれたからこそ話せるようなことが多々あるのではないか、ということ。また機会があれば是非、と思う今日この頃です。

 時代が変わる時だからこそ、置き去りにしてしまったことがないかどうか、再検証する意義があるのではないでしょうか?
 ことあるごとに、またレポートできればと思います。
 (私の場合、現時点ではどうしても関東圏の関係者が主になることをご容赦いただかねばなりませんが…)

美浦編集局 和田章郎

和田章郎(編集担当)
昭和36年8月2日生 福岡県出身 AB型
1986年入社。編集部勤務ながら現場優先、実践主義。競馬こそ究極のエンターテインメントと捉え、他の文化、スポーツ全般にも造詣を深めずして真に競馬を理解することはできない、がモットー。今年に入ってから、予定通りに進まないことが多いのが悩みのタネ。