馬が帰ってきた日(前編)(宇土秀顕)

2018年春季番組表に目を通した時に抱いた、ちょっとした違和感。それは、3回中山の2日目(つまり今週の日曜)に「美浦ステークス」の名前を見つけたことが理由でした。
美浦ステークスは2008年から昨年まで、暮れの中山で行われてきた1600万特別です。更に遡ると、それ以前は1000万条件の美浦特別として施行されていましたが、これもやはり暮れの中山開催。クラスや距離が変わっても、日程だけはずっと暮れの中山で定着してきたこの特別戦が、今年は突然3月に組まれていたのです。
ただ、今年の美浦ステークスは、〝美浦トレーニングセンター開設40周年記念〟として施行されます。トレセンの開設は昭和53年4月10日。開設を記念しての施行なら、やはり暮れではなく春の施行が相応しいのかもしれません。

さて、その昭和53年春。以前このコラムでも紹介しましたが、それまで約8000人だった美浦村にトレセン関係者が約5000人も加わって、村の人口は一気に1.6倍にまで膨れ上がりました。当日はトレセンの開場式、そして、入村者の歓迎式で大いに盛り上がったと伝えられていますが、開設の日を迎えるまではまさに紆余曲折、そこには様々な難題があったようです。
ここで、美浦トレーニングセンター発行『美浦トレーニングセンター10年史』、同『美浦トレーニングセンター30年史』、更には、トレセン開設20周年に美浦村から発行された『日本中央競馬会美浦トレーニングセンター開発の記録』を参考に、トレセン開設までの歴史を簡単に振り返ってみると……。

昭和30年 代後半 東西のトレセン構想が具体化し候補地探しが始まる
昭和42年 2月 美浦村がトレセン誘致のための調査を開始
7月 美浦村が誘致の意向を表明
12月 トレセン建設地が美浦村に内定(翌年2月に正式決定)
昭和43年 2月 トレセン建設が正式に決定
12月 用地買収が本格的に始まる
昭和44年 11月 関東に先行して栗東トレセンが開場(移動終了は翌45年12月)
12月 厩舎関係者への説明会でトレセンへの移動完了は昭和48年と発表
昭和46年 9月 移動予定が51年春に延期されたことが発表
昭和47年 9月 用地買収が完了し土地引渡しの調印が行われる
10月 トレセン起工式
昭和49年 10月 馬場と厩舎10棟を先行整備して茨城国体の馬術競技を開催
昭和50年 8月 南北の馬場が完成
昭和52年 2月 美浦トレーニングセンターが正式発足して受け入れ態勢づくりが始まる
12月 トレセン建設工事が完了
昭和53年 3月 トレセン敷地内が美浦村信太・興津から美浦村美駒へと改称
7日から馬の移動開始
4月 6日に人馬の移動がすべて完了
10日にトレセンが開場

概ねこのような経緯になります。オールドファンならご存知でしょうが、中央競馬に所属する競走馬はかつて、東京、中山、京都、阪神、中京の各競馬場に在厩し管理されていました。しかし、競走馬の数が増加すると競馬場の施設では手狭になり、更には、周辺の都市化が進むに連れて環境問題も持ち上がってきました。そのような背景から、競馬場と切り離された、一定の自然環境の中で競走馬の調教を専門に行う施設の建設、つまり、トレーニングセンター構想が生まれたのです。
この構想は昭和30年代に具体化され、まず候補地の選定が始まりました。その後、関西では昭和39年にすんなり建設地が決定し、昭和44年には早くも栗東トレーニングセンターが開設します。これに対し、関東では昭和42年の暮れになってようやく建設地が茨城県の美浦村に内定するという状況でした。
ちなみに候補に挙がった土地は、茨城県内だけでも美浦を含めて計14カ所。この他、東京9、神奈川11、栃木5、千葉12、山梨1、福島1など全部で66カ所とも68カ所とも言われています。中でも有力候補地として、下総御料牧場があった千葉県成田市の三里塚が挙げられていましたが、その三里塚には新東京国際空港の建設が先に決定。結局、トレセン候補地は茨城県美浦村、横浜市長津田地区、厚木市棚沢地区の3つに絞り込まれ、前述したように昭和42年12月、最終的に美浦村に内定したのです。
それぞれの資料にはトレセン建設が美浦村に決定した根拠が記されています。それらを要約すると、まず、なだらかな山林丘陵地帯のため整地が容易であったこと。そして、工場や宅地・農地が少なかったこと(建設用地の約55万坪の土地は、山林72%、水田13%、畑12%あまりで、建設に伴う住居移動は僅か1世帯だった)。
他にも、夏は涼しく冬は温暖で降水量も適度であること。常磐自動車道の建設計画があったこと。そして何よりも、美浦村の誘致活動が熱心であったことが大きな決め手だったとされています。
翌43年2月にはトレセン建設が正式に決定。同年の12月から、いよいよ用地の買収が本格的に始まりました。しかし、この交渉作業が予想以上に難航します。土地を手放すことを頑なに拒む地権者もいたようですし、代替地を求める地権者に対し広大な土地を用意しなければならないことも難航の大きな理由でした。結局、この土地の買収は4年近い歳月を要して昭和47年9月にようやく土地引渡しの調印が行われます。
トレセンの開設は当初、昭和48年予定とされていたようですが、それが昭和51年に延び、実際には昭和53年にまで延びました。最終的に栗東トレセンと美浦トレセンの開設に8年半という大きな差がついてしまったのも、この用地買収作業の滞りの影響が大きかったようです。
しかし、用地買収が終わっても、開場までの道程は平坦なものではありませんでした。周辺道路、上水道の敷設や排水路の整備、更には、教育機関、消防など公共施設の整備。美浦村にとってはこれらが予想外の難事業となりました。『10年史』にはこうした問題を〝ひとつずつどうにかくぐり抜けた〟と記されています。

しかし最後の最後、まさにトレセンが完成して実際に人と馬が美浦に移ってくる段階になって、また難題が生じます。それが、東京、中山の両馬主協会による「競走馬移動禁止」の仮処分申請でした。『中山馬主協会50年史』、『東京馬主協会30年史』等、馬主側の資料によると、この申請は、競走馬所有者である馬主不在のまま、競馬会と厩舎関係者によって移動計画が進められたことが原因としています。馬主協会の強い要望で設けられた移転計画の説明会においても、両者は妥協点を見いだすに至らず、馬主協会はやむを得ぬ手段として、「競走馬移動禁止」の仮処分申請を東京地裁に提出したのでした。
最終的に、輸送計画の初日となる3月7日の午後3時半になってやっと両者の和解が成立。そんなドタバタの中で競走馬の輸送が始まったため、初日の最終便が美浦に到着したのは深夜だったと言われています。
結局、この騒動がキッカケになり、同年12月の中山開催から重賞レースに限って馬主のパドック立ち入りが実現するようになったと『中山馬主協会50年史』には記されています。馬主にとっては厩舎が東京や中山から、遠い美浦に移ってしまえば、所有する愛馬と触れ合う機会が大幅に限られてしまうことも事実。この騒動の根底には、そんな事情もあったのでしょう。

とにもかくにも、このような難題をひとつひとつクリアしながら、昭和53年4月10日、ついに美浦トレーニングセンターは開場の日を迎えたのでした。

以下次回。なお、『馬が帰ってきた日』というタイトルの説明は後編でさせていただきます。

美浦編集局 宇土秀顕

参考文献
『美浦トレーニングセンター10年史』日本中央競馬会美浦トレーニングセンター刊
『美浦トレーニングセンター30年史』日本中央競馬会美浦トレーニングセンター刊
『日本中央競馬会美浦トレーニングセンター開発の記録』美浦村刊
『美浦村議会四十年の歩み』美浦村議会刊
『中山馬主協会50年史』中山馬主協会刊
『東京馬主協会30年史』東京馬主協会刊

宇土秀顕(編集担当)
昭和37年10月16日生、東京都出身、茨城県稲敷市在住、A型。昭和61年入社。内勤の裏方業務が中心なので、週刊誌や当日版紙面に登場することは少ない。趣味は山歩きとメダカの飼育。