『金勝の恵み』(宇土秀顕)

 

 

↑草津川の源流にあるオランダ堰堤

 広大な関東平野で生まれ育った私には、悲しいかな、〝故郷の山〟がありません。その代わりに、と言ってはなんですが、家内にとっての故郷の山を歩いてみようか……。ある時ふと、そう思い立ちました。その故郷の山とは、金勝山(こんぜやま)。
 栗東、草津、大津の3市の境に位置する金勝山系は、古刹・金勝寺(こんしょうじ)が佇む金勝寺山、鶏冠山(けいかんざん)、そして竜王山と、複数のピークからなる山域。〝金勝山〟の名は、その総称として使われることが多いようですが、中でも、栗東の街中から眺めると一番手前にあり、大きくその姿を見せているのが標高491mの鶏冠山です。それはまさに〝栗東トレセンの後衛〟といった趣。「まず、その鶏冠山に……」との思いに駆られ、草津駅からバスに乗り、終着の上桐生に向かいました。

 上桐生を起点とした周回ルートは、満々と水を湛える池のほとりを抜けての入山。その後、小さな渡渉を幾度か繰り返しつつ高度を上げ、やがて落ヶ滝という滝に出合います。高く見上げる一枚岩をひと筋の水が滑り落ちていく様は、まさに優美の一語。
 こうして、入山からずっと〝水豊かな山系〟であることを実感しつつ、鶏冠山山頂に登り詰めると、眼下には栗東トレセンが広がります。調教コースなどは、もう〝足元直下〟の感覚で、その先の厩舎と居住棟もすべてが一望のもと。トレセンの向こうには小高い安養寺山、端正な三角錐の三上山、琵琶湖に突き出す近江八幡の八幡山や長命寺山、そして琵琶湖対岸の比叡山、更には、その北に稜線を延ばす比良山系の蓬莱山や打見山といった山々まで見渡せます。
 その鶏冠山から向かった天狗岩は山域随一の展望地。今度は西に視界が開け、音羽山、逢坂山、如意ヶ岳など、かつての〝古都の防衛線〟が望見できます。評判に違わぬ絶景を堪能した後、竜王山に立ち寄ってから下山。一気に300mほど高度を落として、沢沿いにスタート地点の上桐生を目指します。この沢、地形図を見ると草津川の源流のようですが、目を惹いたのは、その流れの清らかさ。帰路でもまた、水に恵まれた山の光景に出合うことができました。

 上桐生の少し手前で姿を見せたのが、土砂の流出を防ぐために造られたオランダ堰堤。今は水と緑の豊かなこの山域も、かつては過度の伐採により土砂災害をもたらしたようですが、明治になって対策が講じられ、徐々に植生が回復したとのこと。本来の保水能力を取り戻したことで、現在、この山域が良質な地下水脈の供給源になっているのでしょう。山を壊したのが人間なら、山を生き返らせたのもまた人間。オランダ堰堤はその人知の象徴と言えるかもしれません。

 ところで、水に恵まれた金勝の山々を歩いたことで、学生時代に目にしたある記事を思い出しました。それは昭和59年春、クラシックに臨むため美浦入厩した関西馬ゴールドウェイが、美浦の水道水を嫌がってミネラルウォーターを飲んでいたという話。何しろ遠い昔のこと、記憶も曖昧なので、美浦に帰って週刊誌のバックナンバーを確かめてみたところ、やはり、スプリングS厩舎レポの中でこんな記述がありました。

 ――こちらは水が悪いということを聞いていたのでミネラルウォーターを買ってきて飲ませたりしたことが良かったのか、今は(体調が)戻っていますよ。

 格安のペットボトルの水がズラリと並ぶ今と違い、200mlのビン入りミネラルウォーターが、飲料売り場の片隅にひっそり置かれていた時代。スナックで水割りを作るためにあった、その〝特別な水〟を馬に与えるなど、当時、バイトに明け暮れていた私には思い及ばぬことでした(苦学生だった訳ではありませんが……)。
 結局、ゴールドウェイは美浦滞在で臨んだスプリングSで7着、皐月賞も14着で春シーズンを終えました。しかし、京都で迎えた3冠最終戦の菊花賞では、シンボリルドルフの2着に健闘。ビン入りで売られていた〝特別な水〟も、地元栗東の金勝の名水には及ばなかったということでしょうか……。

 この当時、美浦の水が合わなかったという関西馬の話は、他にもあるようです。現在、関西馬が美浦に来ることはほとんどなくなりましたが、この豊かな水の光景に触れたことで、遠い昔に目にしたミネラルウォーターの記事も、〝宣なるかな〟と納得した次第。なにしろ、美浦の水道の水源は霞ヶ浦に貯まった湖水ですし、以前、美浦の隣町の我が家で井戸を掘ったところ、赤茶けた水が出て除鉄滅菌器なるものを付けたほど。自然豊かな美浦の近辺も、こと、水に限ればそんな地域ですから……。

ただ、残念なことに、現在はその栗東でも地下水の汚染など、水を巡る問題が起きていると聞きます。〝山の神様がくれた水〟はペットボトルで売られているだけでなく、山に寄り添う土地ならば、もっと以前から、もっと身近にあった山の恵みなのです。それが、山のない地域で生まれ、山のない地域に暮らす私が、金勝の山々を訪れて抱いた感想でした。

美浦編集局 宇土秀顕

↑草津川の源流になっている沢の流れ。

↑鶏冠山からの展望。手前にトレセン。その先で存在感を示している三角錐の山が近江富士こと三上山。

宇土秀顕(編集担当)
昭和37年10月16日生、東京都出身、茨城県在住、A型。昭和61年入社。
内勤の裏方業務が中心なので、週刊誌や当日版紙面に登場することは少ない。趣味は山歩きとメダカの飼育。
メダカの近交が進んだためか、昨年産まれた稚魚は大きく育たぬまま。近交の弊害を身を以って感じるとともに、たとえ数センチのメダカとはいえ、その命を預かる立場として猛省した次第。この春、新たな血を導入することを決めました。