現場主義の落とし穴(和田章郎)

 競馬に限らないでしょう。人にはそれぞれ、興味の対象との関わり方として、“現場派”と“書斎派”というのがあります。
 そう、競馬には限らないのですが、でもわかりやすいので、ごく簡単に馬券を買う際の行動パターンを例に取ります。

 まず競馬場に行って馬場の状態を確認し、パドックで馬の気配を見て、引いている厩務員さんの表情、集合がかかった際の騎手の身のこなし、そして調教師とのやりとりの様子を見て、本馬場に入って返し馬に入った馬の動きを見て、可能なら待避所の様子まで双眼鏡を覗いてチェックして、と、ごく一部に過ぎませんが、とにかくそういう作業の後に馬券を購入する。
 これら全部をやらないまでも、行為そのものを重視する考え方。これをいわゆる“現場派”と呼んでいいでしょう。

 これに対し、競馬を知的ゲームと捉え、様々な現象を論理的に解明しようという立場。血統という深い部分の研究に始まって、目の前のレースについては提示されている過去のデータを基に予想を組み立てる。決して競馬場に行く必要などはなく、レースを観ること自体、自身のデータ分析によって得られた“解”を確認するための作業に過ぎない、といった、ホワイトカラー的な関わり方。ごくザックリですが、これらを総じて“書斎派”と呼べるかと思います。

 もう20年以上も前の話になりますが、こういう一節を読んだことがあります。
 「“百聞は一見にしかず”という。だが、それを逆手に取れば、机の上で千、万の情報を得れば、現場に行かずとも十、百を見たことになるのではないか。そういう仮説が成り立つと考えた」云々。
 これ、どことなく屁理屈のようで釈然としない部分がある一方で、でも妙に納得させられるようなところもあります。昨年、書いたご本人に伺ったら、「そんな生意気なことを書いてましたか」と照れておられましたが、要するに書斎派の“究極の覚悟”を示しているように思えるからでしょうか。
 例えば『月』。要するに一般人にはとても行けない場所に関しての考察。これについて「行ってみなくてはわからない」と言ってしまったら、そこで思考がストップしてしまいます。そんな馬鹿げた話はないし、人間の英知を否定しているような気もしますね。それに、そもそも面白くありません。
 ただ、そうは言っても、行けるものならやっぱり月に行ってみる方が、より高度な考察が可能になるのではないでしょうか。
 だからこそ、現場に行くことが叶わない場合、徹底した情報収集、分析能力が必要になる、と思うのです。「千、万の情報を得れば」という作業を、書斎派の“究極の覚悟”と定義づけたいのもそのせいです。
 だって見ていない部分を情報で補おうというなら、そこらへんに転がっている情報だけで済ませてもらっちゃ、何だかなあ、と思わされてしまいます。ごく身近なところで例を挙げれば、テレビやネットに流れる映像。ああいった種類のモノも、モニター用に切り取られた画だったり、1シーンに過ぎませんもんね。

 では、一見が百聞につながる?かもしれない“現場派”。こちらはどうでしょうか。

 どちらかと言えば…じゃないか、自分ははっきりとこちら側に分類されるわけですが、実は“絶対現場主義者”の多くが陥りやすい落とし穴があります。
 「実際に自分が観て、聞いて、感じたことしか信じない」
 というもの。あ、いや、これ自体が悪いのではありません。この感覚が意識のすべてを支配した時に起こりがちなことがポイントで、それが「経験に基づかない案件について、想像力を働かせることが疎かになりやすい」ということです。

 現場主義者の多くは行動力が抜群です。私の知る現場主義の友人達も、世界中どこへでも行ってみて、その印象をしゃべろうとします。政治、経済、文化、スポーツ、その他諸々について。
 その中身の考察も興味深いことばかりなのですが、逆に行ったことのない国々に関しては驚くほどにトーンダウンします。様々な経験をしているのだから、たとえ行ったことのない国についても、いろんなパターンが考えられると思うのですが、あまり語ろうとはしないのです。
 それが「行ったことがない国だから」というだけでなく、どうも思考そのものを止めようとしている、ように映ったりするのです。
 しかし、ですよ。行ったことがある国にしても、数日間居ただけではどこまで理解できるのかはわかりません。まあ何年も海外に行きっぱなしの友達もいるのですが、日本国内の街でも、何年住んでも土地柄、お国柄というのはわからなかったりしませんか。

 自分自身に起きた実例でもあるのですが、要するに現場主義者の落とし穴というのは、経験こそがすべてであるがゆえ、それを妄信してしまいがちになるのです。自分が実際に経験したことだから間違ってはいない、という自信ですね。もしかするとそれは、一人の個人が珍しい状況下でたまたま経験したに過ぎないことかもしれないのに、です。
 そして、そのことを検証、考察してみようという作業が疎かになりやすい。これが一番やっかいな事態なのです。
 これを打破しようとする時、絶対に必要になるのが“想像力”…。これも仮説に過ぎないのかもしれませんが。

 “現場派”と“書斎派”。
 どちらの立場が良い悪い、ではなく、性格や好みの問題になるのかもしれません。が、それぞれに、“どうあるべきか”の意識を持ち続ける必要はあるでしょう。反目するのではなく、うまい具合に融合できるに越したことはありませんから。その方が、きっと楽しいに決まってますしね。

美浦編集局 和田章郎