ノーミスの呪縛(和田章郎)

 採点競技であるために、その結果について、どうしても物議を醸すというか論争の対象となりやすいのがフィギュアスケートです。さきのソチ五輪でも話題になりました。
 オリンピックの場合はナショナルバイアスみたいなものがかかりやすくなるとは思いますし、東側西側といった政治色を感じさせられたりもします。ソチの場合もそんな側面はありましたが、論点がもうひとつピンと来ない印象もありました。とはいえ、新聞やネット上で侃々諤々が繰り広げられたのはいつも通りでした。
 このジャッジが物議を醸すケース、古いところではリレハンメルの、やっぱり女子シングル。そして記憶に新しいところで、しかも大きな事件に発展したのが、ソルトレイクシティーのペアです。
 このソルトレイクの時は、競技終了後、表彰式が終わった後でジャッジの一人が買収を認めました。その後、否定はしたのですが、メディアの格好の的になって非難が殺到。事態を重くみたISUが、くだんのジャッジを除外して採点し直し、1位ロシア、2位カナダの両ペア双方に金メダルを授与するという、これはこれでまた前代未聞の事態で騒動を終わらせたのでした。
 ちなみに“現行ルール”は、この時の一件が引き金になって変更され、それから紆余曲折を経た後に、成立したものです。その意味では、この件の影響が今も続いていると言っていいのでしょう。

 そのロシア、カナダペアの演技内容についての詳細を、ここで取り上げようってわけではありません。無論、その話題に徹するのもやぶさかではありませんが、それはここではさておきます。

 この時の話題の焦点というのが、“ロシアペアの演技に若干のミスがあったのに対し、カナダペアはノーミスだった”こと。なのにカナダペアが2位なのは不当ではないか、というもっともらしい意見が北米を中心にしたマスコミから出てきたわけです。
 この“ノーミス”の概念。フィギュアの判定に限らず、取り扱い注意の極み、のように感じています。

 失敗をしないことは、確かに大事なことではありますが、それが何よりも最優先事項になってしまうと、組織としての行動原理が強張ってしまい、パターン化されやすい。要するに、ミスを恐れるあまり、一歩踏み出すといったことがなくなり、新しいことに着手する冒険心というか、チャレンジしようという意欲が失われていきやすいように思えます。それが何につながるのか……。
 無論、絶対に失敗が許されない案件もあって、人命を預かる仕事などがそうです。外科手術などは好例でしょう。しかし人命を預かる仕事の多くは、冒険する必要性はありません。もしあったとしても、ごくごく稀なケースじゃないでしょうか。

 ですから、ここで取り上げるのは、組織として、ある目的のために機能しようとするケースです。

 数年前ですが、メジャーリーガーのイチローが“何打席か連続で三振をしない”ということが話題になりました。これについて国民栄誉賞を受賞している衣笠祥雄氏が、自身のキャリアをもとに「三振は必ずしも悪いことではないが」と前置きして、その結果を称えていました。
 三振をミスである、と定義するかどうかはさておき、「必ずしも悪いことではない」という意識の持ち方。ここが重要なポイントではないか、と思うのです。
 「フルスイングができなくなった時がユニフォームを脱ぐ時」と言っていた氏ならではの発想かもしれませんが、なるほど同じ三振でも、見逃しの三振とフルスイング後のそれとでは印象が違います。いやたとえ見逃しの三振でも、バッターボックスの後ろに突っ立って見送るのと、踏み込んでボールと判断してスイングをやめたもののストライク判定、というのも、ちょっと違った印象がありませんか。
 ということを考えておいて、ではすべての選手が、いや監督コーチを含めたチームの意識として、三振をミス=“悪”と考えるようになると、はたしてどうなるか。守備面においても、エラーを恐れる野手の動きはどうなるのでしょうか。
 “ミス=悪”の概念は、個人のパフォーマンスに影響が生じるだけでなく、チームとして機能しなくなる。恐らく、まともな野球にはならないでしょう。

 社会全般に、と大きく捉えても、ミスを恐れることで閉塞感は強まるのではないでしょうか。ミスをした個人を徹底的に攻撃することが、他の個人の行動原理にもブレーキをかけ、或いはいじめを誘発し、それを恐れるあまりそれぞれが行動パターンに制約をかけてしまう。おとなしく、無難にやり過ごした方がいい、と。これでは身動きが取れなくなるばかりです。一時期、マスコミがやっていた(今もかな?)“自主規制”などもその類になるのかもしれません。それがまた広く認められ、「ノーミスこそ尊い」といった意識が定着してしまうと、ますます制約がかかることになる……。

 もちろん結果として失敗がないにこしたことはありません。ミスを奨励しようとするものでもありません。
 要するに、行動パターンの制約を外すことが『ノーミスの呪縛』を解くのではなく、周囲の目や判断に左右されないパフォーマンスを追及する精神性。これこそが最も重要なのではないか、ということです。

 どんなに細心の注意を払っていても、起きてしまうのがミスでしょう。先に挙げた、ミスが許されない職務についておられる皆さんの心労は想像を絶しますが、ここで私どもがどうこう言えることではありません。

 我々のところで言えるのは、ミスをただ糾弾するのではなく、また一方で、見過ごすのではなくミスはミスとして捉え、しっかりと検証していく行為。そしてミスを回避するための方策の追求。
 これらが小手先でなく行われることによって、周囲に影響されないパフォーマンスができるようになる。すなわち『ノーミスの呪縛』を解く手掛かりになるのではないか、ということ。そのあたりに行き着くように思います。

美浦編集局 和田章郎