ジーヴズの馬券簿?(水野隆弘)

 「ジーヴズの事件簿」(P.G.ウッドハウス著、岩永正勝、小山太一編訳、文藝春秋刊)。400ページを超える単行本。どういう経緯で手に入れたのか思い出せないが、本棚の奥で眠っていたのを引っ張り出して奥付を見ると2005年5月30日第一刷とあるので、丸8年も寝かせていたことになる。しかし、読むとついつい引き込まれて最後までそれこそ一気。どうしてもっと早く読んでいなかったのかと悔やむ本がこの世にどれだけあるか分からないが、ここで紹介するのは競馬に関係があるから。

 ペルハム・グレンヴィル・ウッドハウスは1881年のイギリス生まれ(1975年没)。日本では夏目漱石と芥川龍之介の間くらいの生年で、大雑把にいえば内田百間(正しくは門がまえに月の字)と重なる時代に活躍したとなるのかな。イギリスを代表するユーモア小説の巨匠ながら本書が戦後初の選集と帯にあるので、散発的にアンソロジーに取り上げられるほかは、英文学者や英文科の学生、マニアにのみ知られる人だったのだろう。2005年を境に国書刊行会や文藝春秋から相次いで訳書が出て、人気の高い「ジーヴズ・シリーズ」は漫画化もされているほどだから、そのころの読書界にはそれなりのブームがあったのかもしれない。私はそんなことまったく知らずにおりました。

 70冊の長編と300本の短編からなるウッドハウス作品の大山脈から、間抜けな主人公バーティ・ウースターと有能な執事ジーヴズによる「ジーヴズ・シリーズ」中の傑作をセレクトしたのが本書。1920年代の暇も金もある若い貴族と頭脳明晰冷静沈着な使用人、彼らを巡る老若男女善悪賢愚とりまぜた人々の落ち着いたドタバタ劇が描かれている。バーティ・ウースターはそのミドルネーム「ウィルバーフォース」を生まれた年のグランドナショナル勝ち馬(架空)からもらったというのだから、無類のギャンブル好きが当然の設定。とはいえ、実際のレースの描写があるわけではない。「なあ、ジーヴズ。ゆうべ倶楽部で会ったやつが、今日の二時の出走ではプライヴェティアという馬にウースター家のワイシャツ一着分ぐらい賭けてみてはと言っていたんだが、どうだい?」「お勧めできません。あの厩舎は活気がありません」といった会話がたまに現れるだけ。それでも、競馬ファンならクスリと笑えるこの手のやりとりが15編の短編のうちに数えてみると30カ所近くある。

 そんな中で「同志ビンゴ」だけは夏のグッドウッド競馬がバックグラウンド的テーマで競馬場のシーンもあり、競馬濃度が極めて高い。友人ビンゴの伯父の所有する馬が、グッドウッド開催のメイン競走にして当時は歳時記の一節を占めたであろう大レース、グッドウッドカップのアンティポスト(前売り)本命になっていて、友人ビンゴは結婚を賭けて馬券で大勝負するのだが…というストーリー。ロイヤルアスコット開催のあとに行われるグローリアスグッドウッド開催は今でも夏のイギリス競馬の華やかさの代名詞とされ、マイルのサセックスSや牝馬のナッソーSなどのG1を含めて重要な重賞がまとめて行われる。当時は長距離のグッドウッドカップが最大のレースだった。

 19世紀の初めに3マイルの競走として始まったグッドウッドカップは、その後2マイル5ハロンに短縮され、現在では2マイルのG2。今年はイングランドの元サッカー選手マイケル・オーウェン氏が所有するブラウンパンサーがここで重賞初制覇を果たして話題になったので、記憶しておられる向きもあろう。トリッキーな8の字コースをぐるぐる回って、終盤は長い直線の力勝負となる。これを日本馬が勝つのは凱旋門賞より難しいぞと思うが、見るだけでも面白いのでYouTubeなどで動画を探してみてください。遡ると1878年にはハンガリーの54戦不敗の名牝キンツェムが、1884年には後の大種牡馬セントサイモンことサンシモンが勝っている。1914年の勝ち馬サンインローは主にシーホークの父祖として今でも血統表の中に見つけることができる。時代を下がった1956年の勝ち馬ザラズーストラは種牡馬として日本に輸入され、1972年の目黒記念勝ち馬カツタイコウらをのこした。ちなみに作品が発表された1922年に勝ったのはフランボワイヤン Flamboyant(1918年生、父Tracery)だった。後に種牡馬となったこの馬は三冠馬セントライトや名種牡馬トサミドリの母フリッパンシーの父としてその血が今も日本のサラブレッドに残されている。もちろん実在の競走馬が作品に現れるわけもないが、古き良き時代の代名詞ともいえる1920年代のよすがが現代の日本にまで流れ至ったと考えると、これも競馬が続いていてこそだよなあとの感慨はある。

 そのほかにも牧師の説教時間の長さを賭けの対象としてひと騒動が起きる「長説教大賞ハンデ戦」、村の運動会で玉子スプーン競走に賭けて競馬的どんでん返しの結末を見る「レースは神聖にして」など、イギリス人の博打好きの伝統が垣間見える作品も収められている。イギリスのジョークの出典はほとんどウッドハウス作品だともいわれる(ほんまかいな?)そうだが、「ジーヴズ…」は2冊に分かれて文春文庫にも入っているので、興味を覚えた方は手に取ってみてください。

 最後に、今週末の競馬後の飲み会ですぐ使えるダイアローグを紹介しておしまい。
 「…あの馬が勝ちそこねたとは聞いたが」
 「勝ちそこねた! そんなもんじゃありませんよ。あんまり遅れたんで次のレースの一着になるところだった」

栗東編集局 水野隆弘