同調圧力への反発(和田章郎)

 2020年に東京オリンピック・パラリンピックが開催されることが決定しました。招致については、前回の16年の時から賛否それぞれに語られ続けてきましたが、最も基本的なところで、そもそも国内の盛り上がり方がどうなのか、が焦点だったように思います。
 これは廃止が続く地方競馬のケースと似たようなところがあって、最終的には地元がどう向き合うのかが問題になるのと同じです。
 その点で16年の東京や、それこそずいぶん昔の話になりますが、名古屋や大阪が立候補した際に招致がかなわなかったのは、結局のところ日本国内の盛り上がりが欠けていたからかもしれません。
 そう考えていくと、これまでと今回とで決定的に違っていた要因が何かと言えば、やっぱり東日本大震災後、ということが挙げられるでしょう。

 招致決定後、「高度成長期に迎えた1964年時とは状況が違うから浮かれている場合ではない」という意見を耳にしました。
 確かに2020年が高度成長期なわけはなく、浮かれている場合ではありません。しかし、その話は別にして、45年に原爆が投下され、戦争が終わり、52年に独立。それから数年後に64年の東京招致が決まったわけで、今回は2011年に未曾有の災害があって、原発事故があって、そこからの復興を期しての20年、という流れを思うと、招致が成功した過程はどこか似ているように思えるのですがどうでしょう。
 少なくともこれまでの招致活動と比較すると、“震災からの復興の気運”が、国内全体の“総意”として機能したことは確かだったように思えます。

 ところで、この“総意”という捉え方。
 これが“統一見解”だの“民意”といった解釈の仕方につながっていくと、ちょっと嫌な気分になってきます。心当たりのある方もいらっしゃるかもしれません。
 つまり、オリンピック・パラリンピック招致を反対していた人々の意見が、隅っこに追いやられてしまう、といったようなこと。マスメディアが盛り上げる狂騒的なムードの中では、反対意見なんてとてもじゃないけど口にしづらい、という空気が立ち込めていませんか。

 このような状況を“同調圧力”と呼ぶのだそうです。心理学の世界の用語だとか。

 オリンピックとは別件でも、ネット上では多種多様な意見が交わされることがありますが、「多数意見だから」という理由でもって自説を展開するような文章をしばしば見かけます。これなどは“同調圧力”を誘引する低劣な手法に過ぎませんが、おうおうにして効果を上げたりするから厄介。「皆がそうなんだから、あなたも(自分も)そうあるべき」みたいな。
 二者択一で多数決を採って100人中51人が支持。それで「総意を得た」とするのも、いかにも乱暴に思えますが、この発想が立派に通用したりもします。
 この“同調圧力”。社会全体、なんて大きく捉えなくても、ごく身近ないろいろなシーンで見られます。
 冗談半分には違いないですが、オリンピック開催決定で盛り上がっているところに水を差したりすると、口の悪い人達には“非国民”呼ばわりされかねません。スポーツの国際試合などで、日本代表チームが対戦する相手国の方を応援してもそうです。例えは悪いですが、今回の凱旋門賞でオルフェーヴルとキズナ以外を応援すると、同じようなことになるかもしれません。
 また、高視聴率を叩き出したテレビ番組を観てないと白い目で見られたり、評価の定着している有名アーティストの作品群にちょっとでも疑問、異論を口にすると激しくバッシングを受けたりして。一方で、その論が完璧だったりすると、逆に完全に無視…。

 これらの“同調圧力”が、一概に日本で顕著と捉えるのは間違いなんでしょう。学術用語なのですから全世界的に見られる現象だと考えるのが妥当と思われます。が、今回のオリンピック招致騒動の前後の状況を考えると、改めて、やっぱり日本ではより強く作用しているようにも感じられます。どことなく“村八分”や“いじめ”を引き起こす構図に似た部分が感じられるからでしょうか。このような考えを突き詰めていくと、気分は暗くなるばかり。
 周りの空気や雰囲気といったものに流されることなく、自分の意見や主張はしっかりと持っていたいし、それら様々な意見が、自由に、闊達に取り交わされる社会が理想的。無論、そこで発信される意見には、正しい見識や感性、倫理感に基づいたモノがより望ましいわけですが、そのスキルを身につけるためにも、簡単に同調圧力には屈したくないかなあと、そんなふうに思う今日この頃です。

 さて、そのような流れを踏まえての2020年東京オリンピック・パラリンピック。
 賛成派が主張する“功”の部分が多いかもしれませんし、安倍首相が招致プレゼンで言及した原発問題に始まり、反対派が危惧し、指摘した通りの“罪”の部分が表面化するかもしれません。でも、いずれにしても、そこから新しい何かがスタートするのなら、それはそれで意味があるのでは、という感覚でいます。
 「7年後、本当の“おもてなし”ができる国になっているとは思えない」とか、「経済的ダメージを受けた時に今の日本人が再生できるわけがない」と言われると、そっちの方がよっぽど「そこまで日本を蔑むか」と感じてしまうので。これ、おかしいですかね。
 ともかく、自分のことに限れば、この開催決定前後の騒動で、より様々なことを考えるようになった分、意味がありました。それだけは間違いないように思います。

美浦編集局 和田章郎