ファンの感覚(和田章郎)

 この業界に入ったのは四半世紀前。それからずっと思い続けていることはいつくかあるけれど、そのひとつに“ファンの感覚”を忘れないでいよう、というのがある。まあこれは、よく聞く話かもしれません。ただ、ひとつ間違うと、業界に身を置きながら「アマチュア感覚でいる」とか、「成熟した競馬観を持たずに済ます」といったように誤解する人もいるようで、自分が言うのはそういうことではありません。
 これは以前、週刊誌の方でも書きましたが、一般のファンが、例えば東京競馬場の記者席でダービーやジャパンCを観るということはないでしょう。学生の頃、その特等席を見上げながら、「あそこで観れたらなあ」と何度思ったかしれない。そこでレースを観ている記者の競馬観が、自分と同レベルなのかと思うと、ホッとする面もあるかもしれないけれど、一方で物足りなさ、失望感も大きくないですか。「替わってくれ」と思う人がいたりして。特等席で観ることができるプロである以上、それなりの責任というか、使命感みたいなものがあってもいいのかな、と思うわけです。
 だから「ファンの感覚を忘れない」ことは、決して「アマチュア感覚のままでいる」ではないのです。上の論理でいくと、むしろそれはファンに対する裏切り、唾棄すべき状態にもなりかねない。それを理解したうえで“ファンの感覚”は持ち続けたい。理想を言えば“一般のファンとは一線を画した部分”を意識しながら、“ファン感覚”を忘れないでいる、ということになるでしょうか。
 そもそも仕事として競馬に関われば、嫌でも“一般のファンとは一線を画す”ということが出てきます。トレセンで馬の息遣いを感じ、ジョッキーや調教師に取材するのですから。それが毎日のことになれば、むしろそっちの意識の方が強くなる。ところが、こちらが当たり前の感覚になると、“ファンの感覚”を忘れてしまいやすく、立ち位置がぶれてしまう。そうなっては、ファンのニーズに応えることができなくなりかねない。それを避けたいのです。
 馬鹿馬鹿しいまでに単純なことを書けば、私どもは滅多なことでは売店で競馬新聞を買わなくなります。ほとんどのファンの皆さんには、まずあり得ないことでしょう(え?スポーツ紙で済ませてる?そういう意地悪は言わないで)。競馬場に入るのだって、お金を払うということはしません(記念入場券を購入するといったような特別な理由があれば別ですが)。レースをゴール板前で観るとか、ウインズに足を運ぶようなことも少なくなります。そして困ったことに、そういう事例が一般ファンとは違う、ということすら感じにくくなります。そんなですから“ファンの感覚”を持ち続けるというのは、簡単なようで難しかったりするんですね。
 その対策の一環(?)として、私の場合は平日に公営ギャンブル場に向かったりします。ここでは競馬に限定しますと、南関東は姉妹紙があるのでちょっとためらったりもしますが、敢えて他紙を購入する。一般席に陣取って、馬券はパドックとコースを行き来して窓口で買う。飲食は売店で買ってくる…etc。そうすることで、一般のファンの息吹が身近に感じられる、気がする。ひとつの事象について、いろいろな意見を耳にすることができますから。勿論、完全にではないですが。
 周期的にそういう時間を持たないと、どうも調子が悪くなったりして。このあたり、単なるギャンブル好きなだけ、という謗りを免れない可能性もありますが、でも、一人のファンとして、間違いなくジックリと競馬と向き合うことにはなります。それが少しでも、情報の発信者としての自分に役立っていれば…。
 まあひと口に「ファンの方を向く」と言っても、一人一人のスタイルは千差万別ですから、なかなか対応し切れるものではありません。競馬場に行かないテレビ観戦派で馬券はパットで購入する、というファンもいらっしゃるし、それ以前に馬券は買わないというファンもいらっしゃいますもんね。そういう皆さんにも、また違った楽しみ方をお伝えできるようになれば、こんないいことはないでしょうけどねえ。
 そんなふうに考えていくと、“ファンの感覚を忘れない”というのは、単純に言えば「原点に返る」ということなのかもしれません。“原点”は“初心”と置き換えてもいいかも。すなわち、自分の立ち位置を再確認する作業。やっぱり、ずっと思い続けなくてはならないことかなあと、改めて思った次第です。
 前回からの続きで、「今、何をどう発信するべきか」ということを考えつつ、今回はとりとめのない話になってしまいました。失礼しました。
美浦編集局 和田章郎