父の七回忌(吉田幹太)

 40も半ばになって時が過ぎるのが早く感じるようになったのかもしれない。入院していた仙台の父が亡くなってから、もう6年が過ぎたのかと思う。

 脳梗塞で倒れて4年。あっちこっち体が弱っていたのに違いはなかったが、透析の準備をするための入院だったので、突然の別れになった。

 父の命日が2月6日。お気づきの方もいるかもしれないが、6年前といえばその約1カ月後には東日本大震災が起こることに。

 今にしてみれば無事に葬儀が出せて、古くからの友人、知人の皆さんとちゃんと別れができたのは何よりも良かったのかもしれない。実際に父がもし無事に生きていたら大変なパニックになったことは容易に想像ができ、母の身も危うかったかもしれない。

 見事な引き際だった。ちょっと乱暴な言い方になるけれども、今でも父のことを思い出すとその一言が沸いて出てくる。

 生きていれば今年で79歳。

 三回忌は遊び好きな父と、その父を慕ってくれた友人や後輩の方と宴会に近い法事を行うことができた。その時の皆様に来てもらえる法事もこれが最後になるかもしれない。そんな思いもあって、もう1回、温泉で派手にやろうかという話になり、とんとん拍子に話も決まった。

 とはいえ、法事は法事。お坊さんを呼んで、堅い儀式はちゃんとやらなければならない。こちらは旅行の前日に地元の知人の方と家族3人でひっそりと済ませることに。

 昼過ぎにお坊さんが到着。お経を読んでもらっている間、約15分。年々、厳しくなっている正座を耐えて、ありがたい話もしっかりといただいた。これでお見送りをすれば儀式は終了。

 翌日には都内や関東圏のあちらこちらから集まってきた知人の方々と久しぶりに会い、散々、太っただの老けただのという話を聞きつつ仙台近郊の温泉地へ。

 さすがに見た目は老けた方もいらしたが、足にガタが来ている自分に比べれば元気一杯。どっちが高齢者なのか分からないほどピンピンしている。

 宴会では何度も聞いたことのある父の昔話で盛り上がったのは勿論、初めて聞くような話もそれなりに出てきたのは意外だった。

 まだ父が若かった時代ののんびりとした感じや泥臭い感じを身近に感じることができ、あらためて、父を見直したり、その後の自分とのやり取りで腑に落ちるようなこともたくさんあった。

 脳梗塞の後遺症が残ってしまった最後の4年。父との関係は悪くなる一方で、亡くなってからしばらくは後悔の念もかなり残ることに。病気だったのだから仕方がなかったのだけれども、ついついきつく当たったりしたことが忘れられない。自分で自分を罵りそうになることも幾度かあった。

 それでもこうやって法事をやり、昔からの友人の方とやり取りをすることで元気だった時の父の面影が戻り、自分の中にも楽しかった時の思い出が溢れ出してきた。

 残された人間の勝手な思い込みかもしれないけれど、ちょっと面倒にも思えても、法事をこなすことで、その人とのつながりを思い出して、気持ちが楽になるのかもしれない。

 とにもかくにも、皆さんを無事に見送って、一晩、いろいろ考えていてこんな結論に達しました。

 次はまたまた6年後の十三回忌。ひとの心配よりも、それまでに自分自身が無事でいれるようにしっかり体調を管理しなければと思った次第です。

 この結論、いつでも一緒のような気がするな。

美浦編集局 吉田幹太

吉田幹太(調教担当)
昭和45年12月30日生 宮城県出身 A型
道営から栗東勤務を経て、平成5年に美浦編集部へ転属。現在は南馬場の調教班として採時を担当、グリーンチャンネルパドック解説でお馴染み。道営のトラックマンの経験を持つスタッフは、専門紙業界全体を見渡しても現在では希少。JRA全競馬場はもとより、国内の競輪場、競艇場、オートレース場の多くを踏破。のみならずアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、イギリス、マレーシア、香港などの競馬場を渡り歩く、案外(?)国際派である。