考える時間(和田章郎)

 文章表記については、昔からいろんなメディアで取り上げられてきました。その多くは語句の誤用とか、日本語の乱れとかについて。最近でもよく見かけます。その都度、不勉強を思い知らされたり、「何を今更のことを」と感じたり、そんなことの繰り返し。ただまあ、どちらかと言えばハッとさせられることの方が多いかもしれません。
 先日もひょんなことからこういう話を耳にしたのです。
 「横書き原稿の場合、句読点は「、」(点)ではなく「,」(カンマ)を使うのが常識」というもの。
 常識?
 誰の発言かは、ここで云々するのはやめておきますが、とにかく聞き捨てならない内容ではありました。ご存知の通り私どもは“横書きの専門紙”で、句読点は当たり前に「、」「。」を使用していますから。無論、ブックログも同様。賢明な読者の皆さんに笑われてしまっているのか、それとも大らかな心でお許しいただいているのか…。
 で、調べたのです。すると、なるほどありました。昭和21年に旧文部省の教科書局調査課国語調査室、という部署が発表したガイドラインのようなものに、『横書きの句読点は「,」と「。」を使用する』と記されているようなのです。その基準に沿えば、用法としては「,」が常識…。
 しかし、それが常識だとすると、家の中にある雑誌、書籍、とにかく横書きで書かれた物を調べてみると、あるジャンルを除いて“常識破り”の物が多いことに気がつきます。むしろ“常識破り”の方が一般的になっている。何故?
 そこで、またいろいろと調べていくうちに、昭和34年に旧自治庁が作成したという要領があって、それによれば『「,」は用いない』ということになっている。つまり現在は政府見解が2種類存在していることになります。まあ言葉はその時代人が使用するわけですから、少しずつ表記法、用法に変化が生じるのは避けられないのでしょう。
 そんなわけで、とりあえず私どもは現代に近い方のスタンダード、というか、これまで通りの用法でいきますが、笑われるのか大目に見て頂けるのか。何しろ、温かい目で見守って頂ければと思います。

 さて、上記の「調べる」作業。それは今や当たり前のことながら、殆どをインターネットに頼りました。本当に簡単で手っ取り早い、非常に便利なツールですが、インターネットが普及していなかった時代を知る人間として、しばしば思うのです。今回のようなケースで、つまりよく知らないことを云々されて、その真偽を確かめようとする時など、昔は一体どんなふうに解決していたのだろうか、と。
 おそらく、よほどのことがない限り、家の中でわかることは限られています。私の場合ですと、文法用語辞典とか共同通信社さんの“記者ハンドブック”などを調べるくらいでしょうか。たとえそこに『横書きの場合の句読点は「、」「。」で』と書かれていることに気がついても、でも『「,」が常識』という人がいて、そういう書物が存在する現実もあるのですから、その事実をどう捉え、判断するのか。
 先に「あるジャンルを除いて」と書きましたが、家にある学校図書関係を見ますと、教科書はじめ資料集、参考書、問題集等、「,」が使われているのです。そのことから、その“常識”は文部科学省が作成したガイドラインによるものではないか、ということが朧げながら想像できますね。発言者がどういう人なのかも。それがいつ作成されたもので、ダブルスタンダード的に別の“常識”が存在するなどは、その時点では調べようがないかもしれませんが、脳のどこかにインプットされ、この朧げながらの想像を得るまでの作業が、次の思考の材料になることは間違いないでしょう。
 そして、そういう経験の積み重ねこそ、記憶とか、そこから導き出される想像力とか、ひいては感性とかにつながっていくものではなかろうか、と思うのですが…。
 回りくどいですか?やっぱり、すぐに答えを得られた方が時間の無駄が省けていいのでしょうか?

 その昔、南方熊楠という世界的な粘菌学者(と言っていいんでしょうか)がいて、私は小学生の頃に、どういうわけかこの人の記念館に行ったことがあるのですが、それはさておき、様々な逸話が残っている人なのです。やれ10数カ国語を操るとか、外出先で一度読んだ本を帰宅後に正確に模写してしまうとか、一方では度し難い奇行をしてみたりとか、とにかく常人には理解できない部分を多く持った人だったようです。
 そういう、ある種の天才が書いた物を読んだ後、小林秀雄という、これまた近代評論の礎を築いた巨人が、
 「あれだけ記憶がいいと、いつ物を考えるのだろう」
 との感想を漏らしたそうです。この話を白洲正子の著作で知った時、木槌で軽くコツンと頭を叩かれたような気がしました。
 南方熊楠という人が、記憶を溜め込むことばかりに執着して、思考してなかったとは思えません。ただ、ごく普通の人間が、無闇やたらと情報だけを頭に詰め込もうとしている作業には、確かにそういう危うさも孕んでいるな、と思えたのです。そしてそれが、我々への警鐘になってはいないか、とも。

 簡単に、次から次に、今の今まで知らなかったことを調べられ、それを昔からよく知っていたかのような気分になれる時代。だからこそ、逆に情報を得られないとひどく不安になって、益々パソコンの前で調べ物を続けることになる。それが日常になって、そのことばかりに執着していると、考える時間はどこに?ということが起きかねない。これでは調べること、情報を入手すること自体が目的になってしまって、最も重要な“その先”に辿り着かない可能性まで出てくるように思えます。
 「知らない事柄について、どこに行けばわかるのか、何を調べればいいのかを知っている、そういう人を本当の物知りと呼ぶ」といった意味のことを書いておられたのは誰だったか…。その点で言うと、現代は多くの人が物知りになったってことでしょうか。考える力と引き換えに、いや代償にして。
 この落とし穴、とんでもなく深い闇かもしれません。もう片方の足は嵌まっているような自分ですが、落ち込まないようにするには、どうすればいいでしょう。まずはできることから?
 うーん、とりあえずわからない語句があったら、昔ながらに辞書を引いてみることにしますかね。でも、小さい字は読み辛くなってるんだよなあ…。いかんいかん、諦めずに、前向きに、前向きに…。

美浦編集局 和田章郎