自作自演(和田章郎)

 “偽”“やらせ”“八百長”
 これらの語に、ある外来語をつなげると、ここ数年、日本で大騒ぎになったニュースが浮かび上がります。共通する外来語は?
 なんて、このところ大流行のクイズバラエティ番組の問題みたいですが、あまりに簡単で、それこそ一般正解率90%超は確実でしょうか。
 そう、答えは“メール”です。
 今更解説の必要はないでしょうけど、“偽メール”は数年前の国会質疑、“やらせメール”は某電力会社、そして“八百長メール”は大相撲。
 どれもこれも、発想が陳腐というか幼稚というか。安直で深く考察するなんてことがなく、しかもごくごく簡単にやれてしまう点も共通します。だからやっぱり発覚してしまうし、その際には何だか下劣で、ひどくみっともない印象を与えます。
 その流れで話を進めますと、前回取り上げた「声を上げる」という作業。以前なら大変な労力が必要だったはずなのですが、インターネットが当たり前になった当節では、まあ呆れるほど簡単に実行できてしまいます。そのこと自体の危うさは、あまり意識されないままで…。

 それはひとまず置いておくとして、上記の3件で言えば、我々レベルに最も関わってくるのは“やらせ”です。
 数年前、日本のプロ野球でFA移籍後、ケガのため長期にわたって登板機会のなかった投手が、オールスターのファン投票で1位になった事件(?)がありました。首謀者にどういう意図があったかはさておき、昔、これをやろうとすると何枚ハガキを書くことになったか想像を絶しますが、これも一種の“やらせ”でしょう。
 今年に入って、店舗紹介の口コミサイトで“不正投稿”、つまりストレートな“やらせ”が発覚しましたが、これとて根は同じ。一個の人間が、大多数を装うという意味で。

 このやらせ口コミサイト事件が発覚した時、読売新聞の『編集手帳』で映画評論家、淀川長治さんの若い頃のエピソードが紹介されてました。アメリカ映画『駅馬車』の公開直前に宣伝を託され、あまりに時間がないので、劇場近くの公衆電話で「『駅馬車』の試写、良かったで」と自分自身が“さくら”になった、という話。そして、淀川さんの行為が微笑ましく思えるのは、自分自身が心底『駅馬車』が面白いと思い、本当にみんなに観て欲しいという情熱が選ばせた戦術だから、かと。それに比べて今回の“口コミのやらせ”は…みたいな論旨でしたか。
 ちょっと余談になりますが、この編集手帳を読んで、とうに退職された先輩から聞いた昔話を思い出しました。ある競馬専門紙が北海道で事業を展開し始めたばかりの頃、新聞の存在を広めたいがために「この新聞また当たってるよ」と社員何人かで一般席で言っていた、なんて話。嘘かホントか知りませんが、半世紀近く昔の業界の先輩達、きっとパイオニアの情熱が取らせた行動だったのでしょう。いや、まったく余談でした、失礼しました。

 話を戻します。

 新聞やテレビ、ラジオは、その報道手法でもって「世論」とか「民意」と呼ばれるものを左右しかねません。戦前の新聞各社の報道姿勢はいろいろ言われていますし、テレビの方では何年か前に、それこそ“やらせ番組”が問題になったりもしました。実話として私どもの家人も、どこかの祭りに足を運んだ際、某テレビ局の制作クルーに環境汚染についての質問を受け、ひと通り答えた後に、「今のところ、もう一度お願いします」と改めてカメラを回し始め、その部分だけがオンエアされたそう。
 要するにテレビは、開示方法次第で情報を操作できる、ということ。そして映像メディアに限らず、新聞、雑誌等の読者投稿スペースなどでも、一定の方向性の物ばかりを掲載すれば、それが多数意見といった印象を与えることができる。これは不特定の一般大衆を相手にするマスメディアであればあるほど大問題であって、戦時下におけるプロパガンダ的な記事や映像作品なども、この範疇に入るでしょう。でも、今の時代にこれをやっちゃあ、メディアとしての信用をなくすだけ。
 とはいえ、こういった問題は今更の話。結構以前から各方面で取り上げられていて、マスメディアの情報ははたして正確なのかどうか、と疑問を持つ視聴者、読者が現れて久しいです。東日本大震災以降の現在でも、対象によってはほとんど報じられなかったりする事例もあって、ますます既存メディアは信じられない、と考える人も増えているよう。その結果、成熟した受け取り手は、流される情報の本質を理解できるようになっているのではないでしょうか。
 そういう皆さんに、より強い力を与えたと思えるのがインターネットです。昨年来の“アラブの春”はフェイスブック等のSNSが大きく関与したと言われてますし、首相官邸周辺で行われている反原発デモなども、一般のテレビではなかなか見ることができず、情報はもっぱら動画サイトに頼っているのが現実。SNSの規制を強化したい大国などもありそうですが、それはどこまで可能なのか。ひょっとすると我々は、劇的な歴史の転換期の只中に居るのかもしれません。そういう昂ぶりすら感じられます。

 ただ、ところが、なのです。どうも素直じゃないのかもしれませんが、だからと言ってインターネットを単純に礼賛する気にもなれない。閉鎖性のない情報伝達ツールとして良い面、明るい面をイメージしながらも、一方で“やらせ”の暗い部分を払拭することができないので。
 なぜなら、前述した通りネットを使えば“やらせ”がごくごく簡単にできてしまう。いやむしろ“やらせ”を増長しかねない。実際に、口コミサイトの不正投稿に代表されるような質の悪い『自作自演』は周囲にはびこっているのですから。愚劣なものはすぐにバレるとしても、新手の手法として、大衆の冷静かつ正確な判断力を曇らせる原因になったりしないのでしょうか。
 ともかくも、いまやマスメディアの枠を超えて、たとえそれが幻であれ何であれ、大衆の意見をまとめるのが簡単に、或いは大多数がこう考えていると思わせることが容易に、なっているのは厳然たる事実。だからこそボーッとしていると大変。知らないうちに“モンスター”が生まれたりしますし、それこそ昨今、加速度的に陰湿化が進む“いじめ”の問題にも関係があるのでは、などと思ったりして。これまた考え過ぎならいいのですが。

 仮に既存メディアが全面的に信じるに値しないとして、かといってインターネットに依存すると、より安易な扇動策に巻き込まれかねない。疑心暗鬼になり過ぎるのも困りものですが、そういう危なっかしい情報社会に生きる我々は、何を信じて、何を拠り所にして目の前で起きている事象を判断すればいいのか…。これ、八方塞がりの状態なのでしょうか。
 詰まるところ、受け取り手として判断力の精度を上げる努力を続ける、決して諦めることなく。これしかないのかもしれません。少なくとも、他人の意見に惑わされないくらいの分別は持っていたい、ですかねえ。
 既存メディア(?)の末端にいる人間としても、いろいろと検証し直す必要がある。深く深く、胸に、頭に刻んでおくべきことと、改めて思っているところです。

美浦編集局 和田章郎