『今さら聞けない競馬の不思議』(和田章郎)

≪はじめに≫
「ビギナーズラック考」

 ギャンブルの世界でしばしば耳にする“ビギナーズラック”。簡単に言えば、まったくの初心者が手にする幸運、になりますか。
 この言葉、初めて買った馬券が的中した、という話に限らず、飛び込み営業初日の一件目で契約が取れた、というケースでも使いますから、ギャンブルの世界を越えて、さまざまなシーンで通用する用語になっていると思いますが、ここでは競馬に特定させていただきます。
 「そんなものは迷信だ」と思われる方々には、申し訳ありません。確かに何の根拠もない現象で、証明する手立てはありません。
 しかし、良く耳に、目にする言葉として定着しているのも事実。

 そもそもこの〝ビギナーズラック〟という用語が使われる背景。
 起きた現象が〝初心者ならではの向こう見ずさが功を奏している〟ように〝見える〟ところにありませんか?。競馬にしろ何にしろ、その対象が持つ楽しさや面白さは勿論、厳しさや怖さなども知っている熟練者(ベテラン)達の、歯噛みしながら搾り出した声=悔し紛れに=とでもいいますか。
 まあギャンブルの世界のことですから、何も競馬に限らずとも、ビギナー時には当てずっぽうで購入した券が的中するケースはあるでしょう。しかし、他の競技と比較しても、競馬が最も顕著なようにも感じられます。

 これは一体、どういうことを意味するのでしょうか?
 キャリアを積めば積むほど、競馬に関する様々なことを詳しく知ることになるのは必定のはず。傾ける薀蓄は増え、語らせたら独壇場になる、といった人もいるでしょうに。

 それだけに、ビギナーズラックの話題を耳にするたびに、こと馬券的中という点では、初心者が熟練者達を上回っている可能性、を思わずにいられません。どころか、ビギナーズラックの現象を考えれば考えるほど、知らぬが仏と言いますか、理屈じゃないとでも言いますか。馬券を的中させる時に必要なのは、情報量、知識量などとは関係ないようにも思えてきます。〝知る〟ことと〝理解する〟ことの違い、みたいなことは確かに言えるかと思いますが、ですから何故それがビギナーズラックにつながるのか。
 本当に、どういう理由でビギナーズラックの現象が起きるのでしょう…。

 ここで自問自答するのが、
 競馬をどこまで〝わかっている〟んだろうか、ということ。

 歴代ダービー馬の血統表を9代前まで遡れる方もいらっしゃるでしょうし、年間に数千レースを観戦する方もいるでしょう。レース数的中率が7割(!)なんて豪語する猛者もいるかもしれません。
 しかし、これらの例は、馬券購入に関して言うならそれぞれ重要なファクターには違いないですが、では、それではたして競馬を〝わかった〟ことになるのでしょうか。

 競馬の構成要素はたくさんあります。まず馬主さんに始まって、調教師、騎手、厩務員さん、育成場のスタッフを含めた直接馬を扱う人々がいて、競馬場の形態やら馬場管理といった施設関連、それを担当する人も少なくありません。開催日に関わることでは、レース当日の気候、湿度等の知識も必要でしょうし、競馬場で働くスタッフの皆さんの仕事ぶりも様々です。
 開催の施行体制という意味では競馬法、制裁規程といったルール全般もそうですし、馬主さん、牧場だけでなく、飼養会社などに代表される周辺企業の景気動向等、競馬産業全体を取り巻く経済面も押さえておく必要があります。そして何より、馬という動物そのものについての理解、等々…。
 押さえるべき要素を数え上げると、まさにキリがなくなるのです。

 それらをすべて身につけるのは、容易ならざる業です。しかし、仮にすべてを身につけたとして、〝ビギナーズラック〟と呼ばれる現象に対抗できるのかどうか。

 競馬をひとつの〝像〟に例えてみます。

 その〝像〟は、知識を積み重ねることでしっかりした形を得るのか。或いは〝像〟は、もともとぼんやりしていて、知識を得ることによって輪郭がはっきりしていくものなのでしょうか。その際、もともとの〝像〟はどのくらいの大きさなのか。
 これ、一人の人間の〝人格〟が形成される過程、などにも用いられる比喩ですが、どっちを採用しましょうや。

 多くのベテランも、競馬は未知の部分が多いことは認識しています。それゆえに経験則から得た〝わかっている(と思っている)こと〟と、〝わかっていないこと〟に分け、わかっている部分で戦おうとする人達がいます。
 それこそが〝セオリー〟を軸にした戦い方、ということになっていると思われますが、そのセオリーこそが「わかっていること」の…いや、「わかっているつもりのこと」の権化かもしれない、という仮説。決して「悪い」と言ってるのではありません。あくまでも仮説が成り立たないだろうか?という話。

 こと予想に関しては、「研究すればするほど的中に近づく」という説を強弁する一派(?)もありますが、真偽はさておき、なるほど当該レースの理解を深めることにはなるかもしれません。でもその多くはほとんど結果論に過ぎず、それで次の馬券につながるかどうかはわかりませんし、まして競馬がわかったことにはならないはず。
 たまにヒットを連発すると、錬金術師よろしく「極意をつかんだ」と感じて、しばらく経ってから、「あれは錯覚だった」という経験。どなたにもあるんじゃないでしょうか。前述の通り、〝知っていること〟と、〝わかっていること〟とは、本来的に別なはずなのですが、熟練者であればあるほど陥りやすい勘違い、かもしれません。
 いや勿論、セオリーについての仮説のところでも触れました通り、予想的中のために研究を重ねる行為が無駄だ、と主張しているのではありません。研究を続ける行為そのものが、その人の競馬の楽しみ方に過ぎず、必ずしも的中に近づくわけではないのでは?というこれまた仮説の話です。

 さてここで、熟練者達が〝ビギナー〟と呼ぶ初心者達の話に移ります。
 彼らは馬券購入におけるセオリーとか、予想の在り方なんてことについて、一点の曇りもありません。
 それはつまり「買い」に出る際に、〝迷いがない〟ということになります。

 〝像〟の話に戻りますと、熟練者が大きな大きな像のごく一部分を「わかったつもり」で捉えて戦おうとするのに対し、ビギナーはぼんやりとした部分を含めた〝像〟の全体を競馬として捉えています。そうする以外には有効な(と熟練者が思っている)知識がないからです。
 この時に生じるのが、熟練者達には信じられない購入方法。

 皆さんも経験があるでしょう。「競馬場に来るのは初めて」なんていう友人に同行してみると、ガンガン馬券を的中させるので、その根拠を聞いてみたら、唖然とするような理由だった、なんてこと。
 これこそ彼らが、こちらが理解している競馬の範疇をはるかに超えたところで、競馬と向き合っている証左になりはしませんか?

 つまりビギナーは競馬の〝像〟を理解するのに、「ひとつひとつの積み重ね」の手法よりも、好むと好まざるとにかかわらず「少しずつ輪郭をはっきりさせていく」手法でもって、馬券を的中させている可能性があるのではないか。
 そんなふうに思えてならないのです。

 そしてこのことは、競馬の本来的な核心部、のようにも思えてならない。

 〝像〟に輪郭を与える前の未知の部分、不透明な部分というのが、他のギャンブルと比較して圧倒的に多いと感じられるのが競馬だと言えます。このことが先に書いた、ビギナーズラックが、競馬においてこそ最も顕著だ、と書いた論拠のひとつですが、この仮説を推し進めていくと、実はこの現象、競馬に限ったことではないことにも気がつきます。
 一般社会でも、わかっているつもりだったのに、実は全然見当違いで愕然とした、みたいなこと。しばしばありますね。

 この現象を考えるに、わかったつもりになる、という意識の流れは、要するに考え方の限界、到達点をこちらが勝手に作ることであり、そこから先には進まなくなる、という可能性を示唆します。
 どこまでわかっているのか、という答えを求めるのと同時に、どれだけわかっていないのか、を追求する行為。それも重要になるのでしょう。
 無論、そこのところをきちんと指摘、説明できないと、未知の部分について語ることなどできません。これもまた、競馬に限らない、生きていくうえでの深い深~い話につながったりもします。
 このあたりがまさに、競馬が単なるギャンブル、スポーツにとどまらない、と信ずるところ。真剣に競馬の話をすればするほど、競馬を超えた話になるケース。これもきっと、皆さんも経験があるはず。

 それでも、たとえ自分が競馬についてわかっていることの限界を理解しているつもりでも、さっぱり馬券が取れない、ということは当たり前に起こりますし、ビギナーズラック考の課題もそこにあります。私自身も、その点には悩まされ続けています。そもそもビギナーには〝競馬の未知の部分〟なんて概念そのものがあるのかどうかもわかりません。
 いや、結局のところ、競馬をわかったつもりになっていても、さっぱりわからなくても同じことで、いつまでたっても結論が出ないことなのかもしれません。

 そういったことすべて含めて、競馬なのだと考えることができませんか?だとすれば、「わからないこと」そのものに、意味があったりしないでしょうか?
 だからこそ、競馬は人を惹き付けて止まない、と思うのです。

 競馬は〝わからない〟から面白い。
 誤解を恐れずに言えば、それは〝人生〟と似ているんじゃないでしょうか?

 ビギナーズラック考から辿りついた、これが現時点での、私なりの競馬観、になりますが、許されることなら、これからもそういう競馬の話をしたい、と思うのです。

 ということで、
≪つづき≫
 こちらの考察は、いずれまた必ずどこかで。

 ではまた、競馬場でお会いしましょう。

美浦編集局 和田章郎

和田章郎(編集担当)
昭和36年 福岡県出身 AB型
1986年入社。編集部勤務ながら現場優先、実践主義。
競馬こそ究極のエンターテインメントと捉え、他の文化、スポーツ全般にも造詣を深めずして真に競馬を理解することはできない、をモットーに競馬との向き合い方を模索中ですが、いまだ道半ば、と言ったところ。
まだまだこれから、の思いです。