1.17から3.11を経て5.1へ(田村明宏)

 年が明けて1カ月ちょっとだが、もう少しで平成が終わろうとしている。私が弊社で働き始めたのが平成6年の春からだから社会人人生の期間と平成という時代がほぼ重なっていると考えていい。昨年のダービーの後にも最後のダービーということで少し平成を振り返ってみたが、平成自体が残り少なくなっただけにこの30年近くをざっと思い返してもいいかもしれない。初めはまだ、私が高校生の頃だったが、日本社会全体が沸き立っていたと思う。今でもよく言われる平成元年の年末に日経平均株価が史上最高の38957円を記録したことで正にバブルの頂点と言っていい時から始まった。その後、株価自体は早いうちに下落したが、世の中全体としてはそれほど大きな影響は受けなかった。私よりも2、3年前に就職した先輩たちは売り手市場の中で余裕を持って希望の仕事に就けていたし、私も運よくこの仕事に就けることに。入社1年目に三冠馬のナリタブライアンが誕生したことは今でも記憶に新しい。だが、当時栗東勤務だった私に翌年、思いもよらぬことが起きる。平成7年、1月17日。午前5時46時、当日は火曜日で休日だったのでのんびりと夢の中で過ごしていると経験したこともないような激しい揺れ。阪神・淡路大震災が発生したのだ。震源地からは少し離れた滋賀県に住んでいたので直接的に大きな被害を受けることはなかったが、同じ年には地下鉄サリン事件も発生したし、言いようがない不安が漂いだしたのは確かだった。

 その後、時は流れて平成23年3月11日。午後2時46分、忘れられない東日本大震災が発生した。当時は私も勤務地が美浦に移っていて金曜日だった当日は日曜版の原稿作成を終えようとしていたところ。もう少しで都内に帰宅しようとしていた矢先だった。今度も震源地からは少し離れていたが、そもそもの規模からして違ったし、老朽化した建物の中だっただけに死を覚悟したほどだった。当日は電気や水道というライフラインが止まったし、高速道路は通行止め、公共の交通機関もストップしたので結果的には美浦に残っていたのが幸いした面もあったが、不安の中で一夜を過ごしたのは言うまでもないし、その後に発覚した福島第一原子力発電所の事故で美浦出張さえも恐怖を感じながらこなすことになった。このふたつの震災の間には16年という時間が流れていたが、私自身が加齢したせいもあろうが、日本全体にとっても中央競馬にとっても、まして弊社に与えた影響はまったく違っていた。阪神の震災も決して忘れてはいけないし、まだ心に傷を負っている方もいるだろうが、やはり東日本の震災は平成を象徴するようなできごとだったと思う。人間が起こした災難、戦争だったり事故だったりは自分たちで反省すべきことだが、昨年もあった大雨や地震という自然災害は誰のせいでもない。それでも私たちは絶望に打ちひしがれる。身近な人をなくしてしまえばなぜ、自分だけが生き残ったのか?というように。

 私自身はふたつの大きな震災の後で特に大きな役割を果たした訳ではなく、運よく生き延びただけだと言っていいだろう。ただ、これだけは言えそうだ。このような災難の中で社会全体が大混乱を起こさなかった日本人は立派だと思うし、何とか態勢を維持できている弊社で活動できていることに感謝したい。一度は死んだと思えば少しでも誰か(私の立場で言えば競馬ファンの方々)の役に立ちたいと。中央競馬でいえば平成は何と言っても関西馬優勢の時代が長く続いたが、昨年の秋以降はGⅠレースに限って言えば関東馬の巻き返しが印象に残った。何も関東馬だけが勝てば競馬が盛り上がる訳ではないが、新元号の新しい時代の先駆けになる予感もある。バブルからスタートして全体が悲観的になっている平成だが、5月1日から始まる次の時代は真面目にしてればいいことあるくらいの楽観的な見通しを持って迎えたい。

美浦編集局 田村明宏

田村明宏 (厩舎取材担当)
昭和46年6月28日生 北海道出身 O型
あの日から間もなく8回目の3月11日を迎えようとしている。毎年のように福島出張を繰り返していると少なくとも市内は以前と変わらぬ姿になっているように見えるが、心の傷は癒えてないはずだ。普段は口にすることがないが、地元に寄せる思いは強い田辺騎手が騎乗するバレンタインSのイーグルフェザーに注目したい。昇級の前走は見せ場なく終わったが、必ずしも順調でなかったのは確か。久々でも入念に乗り込まれた今回は本来の走りができるはず。