米国競馬の文化遺産(水野隆弘)

 2012年版の「アメリカン・レーシング・マニュアル The American Racing Manual 2012」(Daily Racing Form社)が届いた。1906年の創刊から今に続くアメリカの「競馬年鑑」だ。1990年代には内容を縮小したCD-ROM版で発行されてつまらない思いをしたものだが、2000年から旧来と同じずっしりしたものに戻った。判型は「競馬四季報」をひと回り大きくして、厚さはほぼ同じのハードカバーといえば、どの程度のずっしり具合かは理解していただけると思う。一昨年までの版は大手書籍通販サイトで日本からも簡単に買うことができたが、昨年は価格($60)と同じくらいの送料を払ってデイリーレーシングフォーム社からの直接購買、今年に至っては海外発送がなくなったので、伝手を頼って何とか入手できた。Yさん重いものをありがとうございました。

 というわけで、なかなか日本では手に入らないレア書籍となった2012年版。カバーの表紙は昨年の米年度代表馬ハヴルドグレースだった。カラー印刷はそれだけで、全モノクロという競馬四季報以上に愛想のない構成になっているわけだが、巻頭の年度代表馬のページだけは各部門の受賞馬と調教師、騎手または馬主の写真が2011年の全成績とともに載っている。あと写真があるのはかつて週刊競馬ブックにも寄稿してもらったジェイ・プリヴマンさんの「2011年回顧」くらい。あとはひたすらアルファベットと数字だけが詰め込まれている。それでも見ていて飽きないのは、副題に「The Official Encyclopedia of Thoroughbred Racing=競馬百科」とある通り、歴代エクリプス賞受賞馬から2011年に北米で走った全馬の成績(これは各馬1行の簡単なもの)まで、さまざまな角度で、資料的価値のあるものはできるだけ何でも収めておこうという編集によるところが大きい。

 順番に拾っていくと、「20世紀の名馬の全成績」、「2011年の回顧」、「物故録」、2歳馬の「エクスペリメンタルフリーハンデ」、「北米レーティング」、「グレードレースのレースレーティング」、「名誉の殿堂」、「賞金関係いろいろ」、「歴代賞金獲得ランキング」(カーリンを筆頭に100万ドル以上獲得した1000頭ほど!が並んでいる)、「最多勝馬」、「歴代ベイヤー指数上位馬」、「北米全グレードレースのフォーム(成績)」、「全グレード勝ち馬のフォーム(成績)」、「各種リーディング(2011、歴代、オールタイムなど)」、「全米競馬場所在地図」、「各場開催成績」、「年度統計」、「競馬場コース図とレコードタイム」、「関係団体ディレクトリ」、「せり統計」、「歴代最高価格馬」、「リーディングブリーダー」、「リーディングサイアー」、「トップ10種牡馬の全産駒成績」、「歴代リーディングサイアー」、「レコードタイム」、「各競馬場・各距離の2011年最速タイム」、「2011年最速タイム(距離別、性別、年齢別)」、「主要距離別タイムの過去20年トップ50」、「歴代三冠馬データ」、「三冠における牝馬の成績」、「三冠レースにおける最多勝各種」、「ブリーダーズカップ各種データ」、「全米予想選手権結果」、「ステークスレース一覧」、「グレードレース累年成績」、「歴代マッチレース成績」、「歴代単走一覧」、「3頭デッドヒート一覧」、「障害重賞累年成績」、「海外主要競走累年成績」、「2011年全グループレース時系列順一覧=豪・欧州・アジア」、「主要国統計」、「2011年全出走馬成績」、「調教師成績」、「騎手成績」、「種牡馬成績」……ふう、以上1944ページ。

 読むだけでいやになったでしょ、マニアックすぎて。実際のところ、この中でたまに参照するのは「グレードレース累年成績」あたりで、年によって変わることのある距離や条件を確認する程度。資料性は高いが、実用性は低いので、ないと直ちに困るものではない。米国の競馬関係出版といえば9月にサラブレッドタイムズ社が倒産するし、ブラッドホース誌もどんどん薄っぺらくなっていくしで、大変なのは海を隔てていても分かる。それこそ対岸の火事でないのも身に染みるが、そういったご時世に、よくこれだけのものを出せると感心する。ちなみに、日本でもサラブレッド血統センターが1996年版まで出した「競馬年鑑」は「アメリカン・レーシング・マニュアル」並みにとてもよくできた本だったが、しかし、それで商売としては成り立たなかった。

 このような日米の出版事情の一側面を切り取って、その差に米国競馬の文化としての底力を見ることはできる。でもね、競馬関係の出版関係の隅っこからこういうことをいうのも立場として微妙なところはあるけれども、競馬文化は出版物だけではないと思うのですよ。たとえば競馬関係の個人作成によるホームページの質と量とか、Wikipediaの各項目の充実ぶりを見るにつけ、日本の競馬文化も捨てたものではない。国内のみならず、たとえばWikipediaでイギリスの名馬とかフランスの重賞とかをカタカナで引いてみるといい。あらら、こんなところまでというほど、日本語のページは広くカバーしていて、馬やレースによっては本国語版より日本語版の方が詳しいことも少なくない。そのような、商業ベースに乗らない個人的かつマニアックな何かを、こぶし大の石にでも替えて積み重ねれば、世界のどこにも負けない高さになるのではないだろうか。それも間違いなく日本の競馬文化の誇るべき一面だろうと、「アメリカン・レーシング・マニュアル」を見ながら思うわけです。

栗東編集局 水野隆弘