実況の楽しみ(和田章郎)

 日本でテレビ放送が開始されたのが1953年2月1日。つまり先月に、ちょうど60年になったのだそうで、前後する時期にNHKではいろいろな特別番組が組まれていました。
 その特別番組編成の流れなのかどうかはわかりませんが、BSの方でスポーツの“名勝負”にスポットを当てた番組が放送されていて、毎回、興味深く視聴しています。
 また、これはラジオ第1の方ですが、“名物アナウンサー”というコーナーが設けられた番組があって、筆者の生まれる前の放送など、伝説のアナウンサーの貴重な音源を聴くことができます。

 これらの映像、音声を視聴してつくづく思わされるのは、スポーツ番組における実況の重要性。彼ら(多くが男性なので)の、見ている側に訴えかける力というのは絶大です。
 実況者が競技そのものに直接関係するわけではないのですが、“名実況”と呼ばれる物が存在し、それを集めて紹介した書籍もあるくらいですから、やっぱりスポーツが文化として定着するのに、実況放送が一役も二役も買っていることは間違いないでしょう。
 いや、むしろ、スポーツの発展に欠かせないピースのひとつ、という言い方をしてもいいくらいなのかもしれません。

 ひと口に“アナウンサー”と言っても、ニュース関連のキャスターとスポーツ実況とでは、求められる能力は違ってくるのでしょう。
 古舘伊知郎さんが民放局のアナウンサーだった頃のエピソードで、お酒を飲んだ席で報道畑の連中と口論になったことを語っておられました。
 「スポーツなんてお気楽な番組じゃないか」という相手に対し、「お前達はただ原稿読んでるだけじゃないか」と反論した、云々……。
 お互いの立場を重々承知したうえでの大人の口喧嘩。笑い話としてのエピソードですから、話半分なのかもしれませんが、実に興味深い論争とも言えませんか。

 スポーツ実況に求められるのは、要するに“即時性”。その性質上、発する言葉は必ず後追いになるわけで、ただ原稿を読むのとは違って、その瞬間瞬間に何を、いかに伝えるか、が問われます。その際、アーティスト的な“即興性”が加わった時に、“名実況”が生まれるのでは、と思います。古舘氏が言わんとしたのはそのあたり……?

 ところが、競技によっては必ずしも後追いばかりにならないケースもありますね。
 例えばフィギュアスケート。体操などもそうでしょうか。演技構成が、かなりのところまで、前もってわかっています。つまり実況者は、これから起きることがある程度わかっていて、話そうとする言葉を予め用意できる、ということになります。

 無論、実況前にいろいろな材料を仕入れて引き出しに詰める、といった下準備が必要なのは当然なのでしょう。しかし瞬時瞬時に、その引き出しからいかに素早くネタを取り出して視聴者に提供するか、という作業と、スケジュール表に沿って挿入するコメントを、台本のようにして用意できるのとでは、根本的に求められるモノが違うように感じられます。
 スポーツの“実況”は、“ナレーション”ではない、といったような……。
 まあ、好き嫌いはさておき、フィギュアの名実況は少なくありませんし、どちらが見ている人、聴いている人に効果的な言葉として伝えることができるのか。ちょっと難しい部分があるようにも思いますが。

 そう考えていった時に、我が競馬の場合もややこしい。即時性の権化、のようでいて、私どもがやっているように、多くの人が予想してレースを観戦します。架空実況が、高い精度で可能だったりしますものね。
 中山1800mの内枠にシルポートが入ったら、まず「シルポートが今日もハナに立ちました」って、“用意”しませんか。準備をすればするほど、ある程度、結果を想定できることになる。
 それを伝えるだけでは味気ない、と考えたか、或いは時代が求めたのかどうか。ナレーション的に修飾語が多く使われるようになっていった。これは「名調子」で名高い杉本清さんが開拓した、と言っていいんでしょうか。
 ともかく、求められるモノが即時性だけでなく、ストーリーテラーとしての、ナレーターの側面も必要になってきた、ということでしょう。

 ただ、少し脱線しますが、杉本さんは単なるナレーターではなかったように思います。セリフや言い回しがいいという以前に、即時性を備えた実況者ではなかったかな、と。その基本的な技術があってこそ、即興性を含めたナレーションが可能だった。そう理解すべきなんじゃないでしょうか。
 杉本さんに関しては、ナレーションの部分だけが注目され過ぎている気がします。

 本題に戻って。
 杉本さんのことで、もうひとつ挙げておきたいのが、彼は民放テレビ局のアナウンサーだった、ということです。必然的に、映像用のモノが求められたでしょう。
 もしも、もしも「何が名調子だよ」と杉本さんの実況に反発を抱く人がいたら、そういう人はテレビの音声を消してレースを見ればいい。でも仮に杉本さんが場内実況を担当していたとして、その実況が気に入らない人はどうすればいいのでしょう。

 筆者は一時、テレビの野球中継はほとんど音声を消して見てました。耳障りで不快に感じることが多かったからです。傍から見たら、ちょっとおかしな光景に映るかもしれませんが、副音声に球場の音声だけを流す放送があるくらいですから、理解して頂ける方も少なくないと思います。現場には実況はありませんものね。
 物好きな筆者ではありますが、耳障りな実況や演出があったりしたら、その球場からは足が遠のきます。
 その一方で、ラグビー好きの知り合いから面白い話を聞きました。ホームチームを応援する演出を、これでもかと徹底的にやるチームがあるのだそう。アウェーのファンはそのグラウンドには足を運びにくくなりますが、でもホームチームの運営サイドにしてみると、極端なことを言ってしまえば、採算が取れるのならそれでいいのかもしれません。つまり、経営戦略として、アリ、ということ。

 ところが、競馬場の場合はそうはいきません。ホームもアウェーもないのですから。本来的に、場内実況とテレビの実況は一線を画すべきもの、という気がしています。
 となると、場内実況が映像とともにグリーンチャンネルに配信されている現在は、またまたややこしいことになりませんか。

 場内実況として求められるモノだけでなく、仮に映像用に求められるものがあって、それが耳障りだった場合、テレビの音声は消せばいいですが、場内にいたらそれができません。不快なまま、そこに居なくてはならない。もし馬券が外れでもしたら(そのケースの方が多いわけですが)、ただただ苦痛な時間を過ごすことになりかねません。

 その時、競馬場には行かない、という方法を取るしかないでしょうか。いや、それとも別の放送をヘッドフォンで聴きながら観戦します……か?

 前にも書きましたが、以前にも増して競馬実況には様々な要素、スキルが求められるようになってきたようです。即時性と創造性を兼ね備え、そしてその両方のバランスを取る感覚も、といったような。
 それこそ、テレビの実況を観て興味を持った人が競馬場に足を運び、場内実況では競馬場の雰囲気を決定づける。観客動員はおろか、競馬人口までも左右しかねない。
 他の競技でもそうかもしれませんが、これ、とてつもない重責です。プロデューサー的であり、アーティスト的でもあり……。一人で何役もしなくてはならないのですから。間違いなく、競馬の、ひとつの重要な“ピース”と言えます。

 門外漢がとりとめもなく長々と綴ってしまいました。でもレースそのものだけでなく、こういう視点から競馬を“観て”“聴く”ことも結構楽しかったりします。たまにはいかがでしょうか、ということで。
 普段からそういった観点で実況を聴いてらっしゃる方にはより掘り下げて頂き、何気なく実況を聴き流してしまっている皆さんには、ちょっとマニアックな観戦法のひとつとしてお奨めしておきます。

美浦編集局 和田章郎