語り継ぎたい記憶・余話-伊藤正徳騎手(和田章郎)

 週刊競馬ブックの日本ダービー特集号で、〝ダービージョッキー〟に思い出を語っていただく『語り継ぎたい記憶』のページ。ここ3年、東西で1ページずつ見開きで掲載していますが、その関東分は私が担当させてもらってます。
 一昨年に登場願った菅原泰夫元騎手には、その取材ノートからの余話を当コラムで紹介させていただきましたが、昨年の小島太元騎手は紹介せずに済ませてしまい、ちょっと後悔した部分がありました。
 ということで、今年はしっかりと扱わせていただくことにします。

 週刊誌で登場願ったのは昭和52年のダービーをラッキールーラで制した伊藤正徳元騎手。2月に調教師を定年引退され、ご自宅でゆっくりされているところへ取材にお邪魔しました(ということで以下はところどころで〝師〟を使わせていただきます)。

 菅原泰夫騎手のカブラヤオーが昭和50年でしたから、昭和52年の方が時代はくだるわけですけれど、個人的な印象としては大差がない。その理由を考えるに、美浦トレーニングセンターができる前、で共通するからでしょうか。
 取材中にダービー以外の話に及ぶ際、競馬場内にある厩舎エリアのこととか、東京から中山、その逆の輸送システムの在り方とかをイメージするのに、菅原騎手の時と同様、少しばかり時間がかかってしまうのです。昭和30年代後半から40年代前半の話ですけど、伊藤正師も「東京から中山へは徒歩で行くんだよ」なんてことを事もなげに話されるのですから。
 そういった時代背景を踏まえつつ、の話です。

 ラッキールーラに関しては、さまざまな、それこそ多岐にわたるエピソードが語られています。記録的なところで言うと、いまだに破られていない最高馬体重(534K)での勝利、歴代最外の24番枠からの優勝もそうですし、尾形藤吉師のダービー8勝目という物凄い記録の達成馬でもあります(なにしろ第2位が3勝の3人ですから、8勝という数字のとんでもなさがわかろうというものです)。

 「初めて見たのは今で言う2歳の夏。その時から大きかった。こんな大きな2歳馬がいるのか、って感じでしたね。だからというかやっぱりというか、器用さがなくて、調教でもモッサリしていて切れる感じはなかったんだ。でも、難しいところはなかった。だから前で競馬したいというのはあったけど、ハナにこだわるようなタイプではなかったね。ダービーでもイメージとして前へ行こう、というのはあったんだけど、何が何でもハナへとは思ってなかったんだ。だから外枠もそんなには気にしてなかったかな。それが無理したつもりもないのに自然にハナに立てた。ああいうことがあるんだね。向正面で外から来られて一旦、好位に控えることになるんだけど、それも想定内のことでスムーズに折り合えたし、直線も尾形先生に日頃から言われていた、直線を向いてから三つ数えて追い出す、というのを実践できたしね。うまくいく時はすべてがうまくいく、とか言うけど、本当だと思う。まあ最後はもう、ただただ必死だったけど(笑)」

 勝った直後の感想として、これまでに聞いたことがなく印象的だったのが、こちらも誌上でも触れましたが、「勝っちゃったよ」という感覚。字面では伝わりにくいのですが、ニュアンスとしては「勝って〝しまった〟」といったような感じです。
 「自分みたいな騎手が、ダービージョッキーになっていいのか?という感じがあったんだよね。それこそ同期の洋一(福永)とか岡部(幸雄)とか柴田(政人)のように普段からバンバン勝ってるような騎手ならともかく、俺が?みたいなさ」
 そう、伊藤正騎手は名高い馬事公苑〝花の15期生〟の一人。その中で一番最初にダービージョッキーの称号をこの時、手に入れました。
 それを振ると、以下は週刊誌上では触れていませんが、
 「それはやっぱり、寄らば大樹の陰、でしょう。師匠が尾形藤吉だったというのはありますよ」
 勝った後、当の尾形藤吉師と握手した際のエピソードとして、
 「普段は冷静な先生が、握手した時の手が汗ビッショリだったんだ。それまでそんなことはなかったからね。あの大尾形にして、ダービーは特別なレースなんだな、と思ったし、改めて大変なことになった、と思わされた。これからは言動や態度、立ち居振る舞い等、ダービージョッキーとして恥ずかしくないようにしないと、というプレッシャーがかかっちゃった」
 特別な存在としての〝ダービージョッキー〟という考え方なのでしょう。

 ところで、ラッキールーラにまつわるエピソードとして、上記のような数字的なことは勿論、より一般ファンが注目したところでは、やっぱり同世代の持込馬マルゼンスキーのこと。それと、皐月賞で苦杯を舐めさせられたハードバージが、ダービーでは福永洋一騎手から武邦彦騎手に乗り替わったこと、が挙げられるでしょう。

 令和元年のダービーでも話題に上がりましたが、皐月賞馬サートゥルナーリアの鞍上がルメール騎手からレーン騎手に変更になりました。こちらはルメール騎手が騎乗停止になったことで生じた事案でしたが、昭和52年の皐月賞馬ハードバージのダービーでの乗り替わりは事情が違っていました。皐月賞でハードバージに騎乗した福永洋一騎手が、別の馬に乗ってダービーに出走したのです。
 「ホリタエンジェルは洋一の師匠筋の厩務員さんの馬だったんだ。NHK杯2着でダービーに出走が叶った時点で、洋一がそっちに乗るっていうのは、まあ当時の感覚としてはそんなにおかしなことではなかったんだよね」

 もし洋一騎手がハードバージに乗っていたらどうなっていたのか、というのは、歴史上ではあまり適切ではない〝仮定〟の話。ですから、とてもデリケートな話と思いつつ、でも振ってみたい衝動にも逆らえませんでした。すると、拍子抜けするほどアッサリと答えを返してくれました。
 「洋一が乗ってたら負けてただろうね。決して武(邦彦)さんが下手だとか言ってるんじゃないんだよ。あとでレース映像を見たら、ハードバージは4コーナーのところで少しモタついてるように見える。ああいうところの捌きは、とにかく洋一はピカイチだったからね。皐月賞だって、それでアッと言う間に差されてしまったんだ」
 ダービーの着差はアタマ差。
 師が言うように、武邦彦騎手と福永洋一騎手の単純な比較ではなく、同期の天才への畏敬を込めた回想なのでしょう。
 ちなみに、今年のサートゥルナーリアが皐月賞もダービーもテン乗りだったように、昭和52年のハードバージも皐月賞の福永騎手、ダービーの武騎手ともにテン乗りでした。

 そして、そう持込馬マルゼンスキー。
 持込馬というのは、オールドファンには今更ながらになりますが、海外で種付けされた母馬が子馬を宿した状態で輸入され、日本で生まれることになった馬(または仔馬が満1歳以前に母馬とともに輸入された馬)のこと。もともとは内国産扱いだったのに、国の対外貿易政策方針で1971年から1983年まで外国産馬扱いになっていました。昭和52年、つまり1977年当時、マルゼンスキーはダービーに出走することができなかったわけです。
 8戦8勝で引退したマルゼンスキー。その圧倒的な強さから、伝説的なエピソードはたくさん伝わっていますが、対戦した馬との着差の比較から、三段論法式にマルゼンスキー最強説が当たり前に語られるようになり、その比較上の槍玉に皐月賞2着でダービーを制したラッキールーラが挙げられることになってしまいました。
 「いろんなことを言う人達がいたけど、あまり気にしてなかったかな。出られない馬の話をし始めたらキリがないから」
 と、こちらは特に感慨があるわけではなさそうです。

 実際にラッキールーラはマルゼンスキーと未対戦ですし、マルゼンスキーの中野渡騎手が「邪魔をしないように走るから」と言ったとされる件も、現実問題としてまったく邪魔をしないってことが可能なのかどうか…。話として面白いのは認めますが、個人的には、やっぱり何だかなあ、という感じも否めません。
 師が言うように、あまり深く考える必要はないのかもしれません。どっちが強いとか弱いとかの比較はともかく、少なくともダービーにマルゼンスキーが出ていたら、の仮定については。だからこそ、ダービーは特別なんでしょうから。

 最後に、『語り継ぎたい記憶』の取材の際の、これは本当に余談になりますが、24番枠からの勝利についてまず師が口にしたのが、
 「自分達の感覚で言うと、今の18頭立てならそんなに苦労はないかな、とは思いますよね。レースだからいろいろなことは起きますけど、よっぽどのことがない限りは対応のしようがあるんじゃないですか。そういう意味じゃ、ヒカルイマイは特別なんじゃないですか。だって、直線を向いたところでほとんど最後方にいて、そこからゴボウ抜きした馬はあの馬だけでしょう。28頭立ての時ですからね。あれは歴史的な勝ちっぷりですよ」
 というもの。

 特集記事は見開き2ページで東と西で一頭ずつ、と冒頭に書きましたが、今年、関西馬の方で登場いただいたのはヒカルイマイの田島良保元騎手だったのです。伊藤正師にはそのことを話してなかったので、あまりの符合に驚かされたものですが、誌面に載せるかどうか悩みつつ割愛したので、ここで紹介させていただきました。

 「またおいでよ、ヒマしてるから」と見送っていただいたのですが、実現するようならまたこちらでもどこででも紹介したいと思いますので、よろしくお願いいたします。
 ありがとうございました。

美浦編集局 和田章郎

和田章郎(編集担当)
昭和36年8月2日生 福岡県出身 AB型
1986年入社。編集部勤務ながら現場優先、実践主義。競馬こそ究極のエンターテインメントと捉え、他の文化、スポーツ全般にも造詣を深めずして真に競馬を理解することはできない、がモットー。ひと息ついたので、今年こそは北海道に向かう気満々の今日この頃。